1枚の報告書にとても書き切れない
実は中澤さんから言わせると、保護司になる前も保護司になった後もやることは変わらなかったという。というのも保護司になる前から、街で青年に声をかけていたそうだ。
「57歳の時に知人から『保護司になりませんか?』って声がかかって保護司になったのですが、その人は私の普段の生活を見ていて推薦してくれたようです。
その頃は保護司だということを大っぴらに言えないような時代で、私も最初は保護司を知らなかったんですけど、普段私がやってることを、組織がやるんだってびっくりしましたね」
保護司を始めると日頃から色々な人に声をかけていたことが大きなアドバンテージになったという。
「小さな頃からの顔なじみの子が多かったので、途中から横道に行きかけてもキャッチできるんです。うんと悪くなった時に知らないおばさんから『君ダメでしょ』と言われたってムカっとくると思うのですが、顔見知りの子は素直に話を聞いてくれましたね。
当時、一気に5人~10人もの子を引き受けて、対象者が四六時中、ウチを出入りしている状態でしたから。娘と主人には迷惑をかけていましたね」
当時は専業主婦で時間があったという中澤さんだが、年に1人しか担当しない保護司もいる中で20年間で120人以上担当したというのは圧倒的に多い。どんなことに気を付けて保護司を担当していたのか。
「面談にくる人は、行くのが嫌だなあと思ってるわけですから、いきなり本題に入ったりしないように気をつけていました。最初は天気の話をしたり、食べ物の話をしたりして。鑑別所からくる報告書を読んで臨むんですけど、報告書に書かれた欠点や悪癖は、全部ジューサーにかけて飲み込んで、真っさらな目で見たいと思っていました。
面談して報告書を書く上でも苦労しましたね。簡潔に書いてしまうと、その子の奥ゆきが表現されてないように感じてしまって。こんな1枚の薄ぺっらの紙に書ききれるかって、それこそ作家さんみたいに報告書の用紙を目の前に頭を悩ませていましたよ」