高級指揮官の強すぎる恥の意識
第三三師団は3月8日に攻勢を発起し、4月10日にようやくインパール盆地の入り口に到達した。一方、3月15日にチンドウィン川を越えて険路を克服した第三一師団は、4月6日にコヒマを占領してインパール街道を遮断した。同じく第一五師団は4月8日、コヒマとインパールの中間でインパール街道に頭を出した。第三三師団の緩慢な動きで勝機を逸したことは明らかだ。
後方連絡路を遮断された英軍は、補給や補充の一切を空輸に頼る「円筒陣地」で持久して戦力比を逆転させ、6月22日にインパール街道を打通した。これで第一五軍は作戦続行を断念し、防勢転移をビルマ方面軍に具申したが、すぐには受け入れられなかった。南方軍、大本営で協議の末、第一五軍に後退命令が下されたのは7月13日だった。
高級指揮官の強すぎる恥の意識、各司令部の面目などが絡み合い、なかなか後退の決心が付かなかったわけだ。こうして雨季の最盛期における退却行となり、経路は靖国街道とか白骨街道と語られる凄惨な様相となった。インパール作戦での日本軍死没者は3万6000人、ビルマ戦線全体で15万8000人にのぼるとされる。
文/藤井非三四 写真/shutterstock AFLO
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