優秀な人ほど野戦の将帥には向かない理由

昭和41(1966)年8月に亡くなるまで牟田口は、インパール作戦に関する批判に反論し続けた。終戦早々、仏門に入って読経三昧で過ごした河辺とは好対照だった。そして牟田口が強く批判したのは、独断後退をして軍の作戦を根底から覆した第三一師団長の佐藤幸徳ではなく、主攻を担任した第三三師団長の柳田元三(長野、陸士二六期、歩兵)だった。柳田は陸大を卒業後に配置されたのは、エリートの証というべき軍務局軍事課予算班だった。それから柳田は陸士二六期の先頭を走り抜けた。

加えて柳田は、対ソ情報のエキスパートという顔も持っていた。彼はポーランド、ソ連、ルーマニアで駐在員や公使館付武官を経験している。そして対ソ諜報の元締めだったハルビン特務機関長のとき、関東軍の特務機関や情報部局を整理・統合して関東軍情報部を立ち上げた。この実績は高く評価されて柳田は大将街道に乗り、親補職を早く経験させようと同期の先頭で師団長に就任することとなった。

日本軍“史上最悪の作戦”インパールの惨敗を招いた「恥の意識」と「各司令部の面目」_3
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第三三師団は昭和14年2月、仙台で警備師団として編成され、第一四師団(宇都宮)の子部隊で、戦力に定評のある兵団だった。そのためインパール攻略の主力となり、野戦重砲兵連隊二個、戦車連隊と独立工兵連隊それぞれ一個の配属を受けて、英軍が建設した自動車道を使って攻め上がることとなった。

昔から日本軍で語られたことだが、情報畑の育ちで優秀な人ほど先が読めるからかすぐに消極的になり、遅疑逡巡に陥り戦機を逃しやすいから、野戦の将帥には向いていないとされていた。柳田はまさにこの好例となり、作戦前から攻勢作戦を疑問視し、軍司令部に再考を求め続けた。作戦中もすぐに補給が不安だとして追撃の手をゆるめて英軍を逃がしてしまう。

そのたびに軍司令部に作戦中止の具申をしては、牟田口の激怒を招く。師団司令部も内部崩壊の様相を呈した。参謀が提出した作戦計画に「本当にこんなことができるのかね」と疑問を口にしてから裁可するというのだからだれもがやる気を失う。