給食費を払えなくて小学校の先生にお金を立て替えてもらって……
――光上さんのご両親は中国の出身だそうですが、光上さんも中国で生まれたんですか?
光上せあら(以下同) そうです。両親が中国の田舎で出会って、私が生まれて。その後、親の仕事の都合で一家で日本に来て、15歳で日本人に帰化したんです。だから、価値観や生活スタイルは中国人ですね。
――来日後は、どんな生活を送って来たんですか?
3歳から9歳までは京都に住んでいたんですが、結構サバイバルな環境で生きてきました。両親も最初は、日本語が話せなかったし、当時は中国人に対する差別がすごくあったから、働き口がなかったんですよ。
苦労して見つけた仕事だから、家庭の都合で休むこともできなかったんでしょうね。
私は家の外で一人座って両親の帰りを待っていて、心配した近所の人に保護されて、そのお宅でご飯を食べさせてもらったり……なんてことも。本当に貧乏で、小学校でも給食費を払えなくて学校の先生にお金を立て替えてもらったこともありました。
――大変な生活だったんですね。
貧乏はまだ耐えられたけれど、学校でのいじめが一番きつかったです。当時は中国名だったので中国人というだけで差別される。「あの子は中国人だから一緒に遊ぶな」と、クラスの子のお母さんたちが言っていたというのも聞いたことがあります。
あと、文化的な違いも大きかったですね。日本人は毎日お風呂に入るけれど、中国ではお風呂に毎日入る習慣がなかったから、私も週1回ぐらいしか入浴してなかったんです。だから、不潔だし、服も汚くて。
それをからかわれて、いじめられていました。
――京都ではどんな家に住んでいたんですか?
あるときから家庭の事情で、母は京都大学で働き始めたので、キャンパス内にある吉田寮というものすごく古い学生寮に母娘で住んでいたんです。家賃1万円で共同トイレの部屋でした。そのトイレが部屋から5分以上かかるから、夜トイレに行きたくてもいけない。
夜は、母がいないこともあったから、一人で歩いていくなんて怖くてできなくて。それで、8歳ぐらいになるまで部屋でおまるでしていたんですよ。その頃、寮で家事が起きたことがあって。寝ていたら突然「火事です!」って館内放送が流れて。あれは怖かったですね。
――火事の後、どうしたんですか?
母が忙しかったこともあって、母の知り合いの家に預けられました。やっぱり他人の家だから肩身が狭かった。週末は寮で母と一緒に過ごせるから寮に戻るんですが、母が帰ってこない日もあったから自分でお米を炊いてチャーハンみたいなものを作って食べたり。何でも自分でやるようになっていました。