お父さんと慕う社長夫妻も津波に流されて

モニカは、震災当時から気仙沼市に住んでいたという。その彼女に震災時の様子を聞いてみると、「本当に大変だった」と明るく言いながら、当時を振り返った。
地震が発生した3月11日、モニカはその当時、夫と一緒に魚の卸問屋で働いていた。

「津波がきたときは、旦那さんと一緒に、とにかく必死で近くの避難場所に逃げました。ビルの上に登ると、気仙沼の街が流されていくのが見えました。怖くて怖くて、もう涙が止まらなかった」

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津波が襲った直後の気仙沼(2011年3月撮影)

この津波で、モニカがお父さんと呼んで慕う卸問屋の社長と、その妻も命を奪われた。高台にあるホテルの屋上には多くの人が集まり、救助にあたるヘリコプターに向かって人々が手を振って必死に助けを求めていたそうだ。

モニカと同じ店で働くミヤビ(43)は、震災の2か月前に、気仙沼で女児を出産したばかりだった。

「私はお見合い結婚をして、フィリピンから気仙沼にきました。旦那さんは24歳上で、もう仕事は引退しています。彼はフィリピン人とお見合いするためにエージェントに300万円払ったんですって。今の相場は400万円くらいに上がっているそうです。
その旦那さんと結婚して、女の子が生まれた2か月後、震災が起きました。うちは、海から少し離れた場所に住んでいたので、津波や火事の影響はありませんでした。だけど電気が停まってしまい、すごく怖かった」(ミヤビ)

彼女の住む集落は、水道の代わりに、生活用水として山から水を引いて暮らしていたといい、断水に悩まされることはなかった。ただ、生まれたての赤ん坊に加え、3歳になる幼い子供を抱えながら、灯りが消えた部屋の中で不安な日々を過ごした。

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気仙沼シャークミュージアムには津波到達点が今でもしっかり記録されている(2023年2月撮影)

「自分のことより、子どもの食事や、おむつのことで頭がいっぱいだった」

そんなときに支えてくれたのが、地元の教会だった。さらに、フィリピン人同士で支えあう、緩やかな組合のような組織があったとミヤビは言う。

「水や食べ物を教会が援助してくれました。お金も援助してもらった。フィリピン人同士で、なんとか助け合いました」