すべすべ肌のネギは放射能を吸わなかった

督さんの父、信一さん(1941年生まれ)は有機農業を1970年頃から手がけてきた。提携する消費者に直接野菜を届け、田植えや稲刈り体験を受け入れて消費者と「顔の見える関係」を育んできた。

【震災12年】2011年、放射能が降りそそいだ春「もう有機農業はできないのでは…」絶望した息子と勝負に出た父「“僕らが土を守ったよ”とほうれん草の声が聞こえた」_2
大内信一さん(右)

放射能が降りそそぐなか、督さんと信一さんは、ほうれん草や小松菜、キャベツなどを引っこ抜き、畑の隅に積み上げた。野菜に対して申し訳ない。むなしくてつらい作業だった。

「もう有機農業はできないのでは……」

督さんは絶望していたが、父の信一さんは違った。

「つくってみなければわからん。だめなら耕耘(こううん)してしまえばいい」

例年と同じように耕し、種をまく。ためらうことなくひとりでどんどん作業を進める。

督さんは父の行動が理解できない。

「こんな状況で種をまいていいのか。1年間様子をみて、研究機関とかの調査結果を待ったほうがよいのでは……」

信一さんは当時なにを考えていたのか。

原発事故後、「外に出るな、放射能が降ってくるんだから」と言われるなか、信一さんはほうれん草畑を見に行った。

雪が解けて最初に種をまくのがほうれん草だ。すでに直径20センチのロゼット状に育ち、地面を緑の葉がおおっている。

「僕らが畑を守ったよ」

ほうれん草が言った。

「なんかおいしくない食べ物がいっぱいあるよ」

「でもおなかがすいたらこれも食べざるをえないなあ~」

おかしな食べ物とは放射性セシウムのことだ。

「やっぱり堆肥の栄養のほうがおいしいな~」

セシウムは食べたくないけれど、腹が減れば食べざるをえない――。

そんなほうれん草の声が聞こえた。軽トラック10台分のほうれん草を捨てながら、ほうれん草が身を犠牲にして土を守ってくれたと感じた。

【震災12年】2011年、放射能が降りそそいだ春「もう有機農業はできないのでは…」絶望した息子と勝負に出た父「“僕らが土を守ったよ”とほうれん草の声が聞こえた」_3
ほうれん草畑。2011年には土全体をおおっていた

一方、膝ほどの高さまで育っていたネギはこう言った。

「私たちはすべすべしてっから、放射能をまったく受けつけませんよ。根っこからも吸わねから、すぐに食べられるよ」

ほうれん草や小松菜からは1キロあたり800から1000ベクレルのセシウムが検出されたが、ネギは水洗いすれば放射能は検出されず、4月から出荷できるようになった。

「ネギは肌がすべすべで、病気になっても農薬がすべって流れるから効かないと言われています。そういう知識があるから、おやじはネギがそう言ったように感じたんでしょう」

督さんは振り返る。

東北地方は数年に一度、お盆でもこたつがほしくなるほどの大冷害に見舞われてきた。常識では、夏の気温が15度以下では稲は花粉ができず結実しない。ところがそんな年でも、ふだんの2割程度は実が詰まっていた。

「おう、お前たちどうしたの!」

信一さんが稲に尋ねると、「寒い夏に、みんなで生きたら全滅するぞって相談して『俺はここで死ぬけど、お前は元気そうだから生きて子孫を残せ』と話し合ったんだ……」。

そんな稲の声が聞こえたという。

「大冷害のときも原発事故のときも、私は作物の声が聞こえたと思った。だから作物の強さとか、賢さを信用してみようと思いました」

2013年に開かれた講演会で信一さんは語った。