谷村新司ものまね誕生のマル秘エピソード

ここに至るまでには紆余曲折があった。

「広島県福山市の工業高校を出て、日本工学院専門学校の公害工学科に入るために新聞奨学生で上京してきました。子どもの頃はひたすら大人しくて人づきあいが苦手、本ばかり読んでいて目立たないタイプでした。
高校で野球部に入ったんですけどね、高3の甲子園予選の広島大会で唯一の補欠選手でベンチ入りはしたものの、試合終了後に監督から『ゴメン、代打で出すの忘れてた!』って言われたほど目立たなかった。わからないものですよね、それなのに芸事の世界に入るって」

〈60歳でお笑い養成所に入学)“初めて見たときはどうにも気味が悪かった”ミラクルひかるを世に出したものまね芸人兼芸能事務所社長、ダンシング☆谷村の現在。スタッフの裏切りで会社が傾くも…_4
23歳、横浜のライブハウスのウエイター時代のダンシング谷村

いくつものバイトを転々とした。横浜でライブハウスのウェイターをしていたとき、たまたま司会役に任命されてマイクトークをすることになった。1984年のことだ。

「それがめちゃくちゃウケて、お笑い芸人になろうって思ったんです。ところが、何人かの相方と漫才コンビを組んでも何年も鳴かず飛ばずの状態でした。のちに芸能リポーターになった三井三太郎さんとも『DXコブラ』って漫才コンビやってたんですよ。でもそれも解散して、ピンで暗中模索状態でした。
ちょうどその頃、ものまねで有名なショーパブが、ものまね以外の芸人も募集しているのを知り、即席コンビで入ったんです。そこに待っていたのはまさに驚きの世界でした。楽屋にはニセモノの松田聖子さんやニセモノの五木ひろしさんがいて、なんとも魅惑的な雰囲気(笑)。話を聞いたらものまねのみなさんって『営業』でものすごく稼いでるんですよ」

「ショーパブで漫才やコントをやっても、お酒が入ってるお客さんは聞いてくれない。でもものまねには目がいく。いま考えればムチャクチャなんですけど僕、『1000の似てない声を持つ男』ってネタは持ってたんです。ものまねのクオリティはプロにかなわなくっても、トークの面白さには自信がついてきていた。
それで東急ハンズに行って、カツラを買って、自分でカットしておでこをだしてやってみたのが谷村新司さんでした。

〈60歳でお笑い養成所に入学)“初めて見たときはどうにも気味が悪かった”ミラクルひかるを世に出したものまね芸人兼芸能事務所社長、ダンシング☆谷村の現在。スタッフの裏切りで会社が傾くも…_5

ご本人は絶対やらないオリジナルダンスの“喋りものまね”って当時はまだやる人がいなかった。おかげで漫才からものまねに転向して、数か月でテレビに出られました。上岡龍太郎さんの番組で、ちゃんとした谷村新司さんのソックリさんと、めちゃくちゃなソックリさんの僕で出た。何年もまったくテレビに出られなかったのに、そこから立て続けにオファーがきました」