遺族が撮り貯めた行政との200時間に及ぶ話し合い、すれ違うやり取りを観客に追体験してもらうことに意味がある。

もし自分が親の立場だったら……『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』寺田和弘監督インタビュー【東日本大震災から12年】_7

──映画の前半、教職員の中、唯一助かった先生と、震災当日の午後、休みを取っていた校長先生を軸に第1回目の説明会が行われますが、震災から避難まで51分かかってしまったことの経緯について、誰がストップをかけたのか、はっきりとした答えが返ってきません。以後、ずっとその連続なのですが、遺族の方たちから預かった200時間ものやり取りを通して、感じられたことは?

「この映画の中でのやり取りも大概ですが、でも、あれでも一般の観客が耐えられる限度のやり取りをなんとか見つけて、会話が成立しているところを選んで構成しているんです。実際のやり取りは、もっとひどい。

遺族の方が説明会に参加する度に心が折れたと言っていますけど、 映像を全部見ている僕も本当に苦しくなるんですよ。なぜ、質問しているのに、答えないのか。質問とは違うことをわざわざ答えるのか。そういうやり取りがずっと続いていくのを何度も見て、当事者でない僕ですら苦しかったし、行政と保護者の間の溝がどんどん広がっていくのも感じました。

ただ、この映像を見続ける中で、これは観客の人に追体験してもらえるのであれば、この映画には意味があるなと思いました」

──行政側が保護者たちの問いかけに応えない、なおかつ途中で、生存した生徒たちから聞いた聞き取り調査の書類を破棄するなどの行動にでるのは、やはり、誰に責任があるのか、曖昧にしておきたいということなんでしょうか?

寺田監督は、教育委員会の当時の学校教育課長が、部下に「喋るな」的な目配せしている映像を見逃さず、映画の中で使っていますが、あそこをはじめ、教育の場でのヒエラルキーがあちこちで露出してくる。そもそも、避難場所がなかなか決まらなかったのも、先生たちの上下関係があったんじゃないかという意見もあります。


「大川小学校がなぜ、ああいう体制だったのかも、映像を通して見えてくる気がしますよね。本当になんでしょうかね。色々な事件が起きても、真相追及を自ら明らかにしていかないから、繰り返されることなのかなと思います。表面的な責任や、表面的な改善、表面的な対策に終始してるからじゃないですかね。

映画の中でも取り上げていますが、保護者たちの調査で、実は大川小学校は震災の年からさかのぼって3年間、避難訓練を一度もしていなかったことが後でわかります。そして、そのことを把握しておきながら、教育委員会からの警告も指摘もなく、見過ごされてしまった。これは他の小学校と比べてもあり得ないことです」

今作ではあえて、個人の物語にフォーカスすることはやめた。

もし自分が親の立場だったら……『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』寺田和弘監督インタビュー【東日本大震災から12年】_8

──石巻市、宮城県での調査では埒が明かないので、保護者の要請で外部の調査委員会が文部科学省の指導で設立されますが、これも東北エリアの有識者が集まったもので、教育評論家 の尾木ママこと尾木直樹さんが、東北とは全く関係のない人たちでないと意味がないと指摘されていますね。

「第三者委員会は、原則公開という形で、マスメディアも入って、『自分たちは公開しています』という形で開催されました。けれど、おっしゃるように、開けばいいのかというと、そうではないわけですよね。構造自体を開かないといけないわけだけど、それをしない。だから、公開する意味というものを、行政はわかってないんじゃないかなと」

──そういう行政と向き合う保護者の方たちを、カメラで追う中で気を付けられたことは?

「おひとり、おひとりに深い悲しみと、 それぞれの物語があるんですよね。で本来であれば、そうしたひとりひとりに寄り添い、深い悲しみや怒りを観客の皆さんに聞いてもらう必要性はあるのかもしれないんですけれど、今回はそういうアプローチはせず、正直に言うと、表層的な部分に留めました。

例えば、映画に出てくる、娘を亡くした紫桃さゆみさんは、息子さんに車の中で『もう死のう』と2度言ったことがあるそうです。そのとき、息子さんに『俺にも人生があるんだよ』と言われたという、言葉にならない深い傷を負ったやり取りをしているんですよね。その話をされている姿を映画の中でお伝えすべきでしょうけれど、色々考えた中、今回は、個人の方の物語にフォーカスすることはやめようと。そこは、いろんなジャーナリストの方がされているので」

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──印象的な場面として、校庭から裏山に逃げるのに何分かかるかを、保護者の方たちが実際に走って、タイムを記録して、検証されているとき、ガンの手術をされた直後の佐藤美広さんが走るんですけど、ご本人も皆さんもやりながら笑みがこぼれるんですよね。なんで、こんなことをやっているんだっけ、みたいな感じで。情熱をもってやっていて、悲しみを抱えているけど、共闘している熱さが伝わってくる光景でした。

「そうなんです。普通、ああいう時ってああいう笑い声はおきないですよね。でも、証明してやったみたいな。形になることがちょっと楽しくて、笑みがこぼれることがある。人間としての深いお付き合いをされているんだなと強く思いますよね」

──遺族の方が何度もめげずに対話を求め、丹念にいろんなことを調べていったので、行政側の不備がひとつずつ明らかになっていきますが、保護者の方が声を挙げなかったら、それこそ、市長が言ったように、「災害なので宿命です」と運命論で片付けられていたかもしれない。これはよく考えると、恐ろしいことですね。

「紫桃さんをはじめ、情報開示請求を、遺族の方々はずっとやり続けたんですよね。ご自宅に行くと、その書類が山のようになっていました。でも、見せていただくと、中はほとんど真っ黒です」

いつの時点で避難すべきだったか、遺族自らが命が助かった時間を検証していく過酷さ。

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──黒塗りですか?

「そうですね。でも、情報開示をずっと重ねてきたから、裁判が始まる前に、吉岡弁護士は、もう、証拠は集まっていると確信されていたと思います。

実は今日、このインタビューの依頼を受けたとき、僕よりも、吉岡弁護士の方がふさわしいんじゃないかなと思ったんですけど、吉岡弁護士との出会いというのが2010年11月、秋田市の弁護士、津谷裕貴さんが、離婚を巡る裁判で、妻側の代理人だった津谷さんを逆恨みした元夫に刺殺された事件なんです。通報でやってきた警察官の目の前で起きた事件で、警察の初動捜査が問題となり、国選訴訟となっていて、吉岡弁護士はこの津谷弁護士殺人事件と、この大川小学校の訴訟と同時期に携わっていたんですね。津谷弁護士殺人事件の方は、大弁護団で、全国から大勢の弁護士が参加していたんですが、大川小学校の裁判は斉藤弁護士と二人だけの構成でした。

で、なぜ、吉岡さんは二人だけで十分やれると思ったかというと、やっぱりご遺族の方たちと会って、お人柄を見て、できると思ったんじゃないかなと。で、弁護士が調べるよりも、地域の方たちが調べた方が分かることが圧倒的に多い。でも、実際、裁判を起こすのって非常に過酷なんです。日本の裁判というのは、一般市民が思っている証拠が証拠にならず、裁判で勝訴するために認められるための証拠が必要なんですよね。

自分では、これが決定的な証拠だと思っても、裁判では証拠として扱ってももらえないというケースはいっぱいある中で、この大川小学校の裁判では、遺族が、いつの時点で避難すべきだったか、その時間を巡る証拠を集めざるを得ない。それを検証していくことは、その前に逃げていれば助かったという証でもありますから、すごく辛いことをあえて遺族の方たちに調べろというんですから、ある意味、吉岡弁護士というのは非情でもあるんですよね」