自分の表現が未来の誰かに繋がる予感
ーー第四話「幻の月」の主人公は愛妻を亡くした72歳の山田公伸、第五話「あしたになったら」の主人公は、外国ルーツの生徒たちを受け持つ40代のボランティア教師・聡美。登場人物の年齢や属性の幅がグッと広がっていきますね。
岩井 それまで書いたことがない年代の主人公を書いてみたい、チャレンジしてみたい気持ちが強かったんです。それに、そもそも詩を書くことや詠むことは、若い人だけがやることではない。第四話では72年間まったく詩に触れてこなかった人が、自分の人生を詩で振り返っていくというか、詩で総括する。彼にそんなことをさせてしまうぐらい、詩の力は強いものなんだと思いながら筆を進めていきました。第五話ではブラジルからやって来たばかりの、日本語もおぼつかない小学五年生の女の子の心情を汲(く)み上げたうえで、なおかつその子が書きそうな詩を書かなければならなかった。作家としての技量が最も求められた話だったと思っています。
ーー各人の詩をそれぞれの人間性込みで読む楽しさは、小説でしかできない、小説ならではの醍醐味でした。そうした営みが積み重なっていった先に最終話が現れるのですが、連鎖の果てに待ち受ける展開に驚きました。群像劇の締めくくり方として二重三重の企(たくら)みがありますね。
岩井 たとえ詩人が死んでも詩は残るし、残された詩を読むことならいつだってできるじゃないですか。でも、詩を書いた本人が自らそれを詠み、他者に聞かせることができるのは、その詩人が生きている間だけなんですよね。タイトルに掲げた「生者」の一語には、そんな意味を込めているんです。ただ、インターネットによるアーカイブ化が発達した現代では、ポエトリーリーディングの現場にいなくても、ライブの擬似体験をすることはできます。そうした現実を出発点に、第六話のイメージを固めていきました。
第一話で主人公・悠平の踏み出した一歩が、どんどんどんどん連鎖していって、最終的にどれほど遠くまで届くことになるのか。あなたが踏み出した一歩はもしかすると自分には小さな一歩にしか見えないかもしれないけれど、自分が知らないところで実はすごく大きな足跡になっているかもしれない。その可能性を最後に示すことが、この物語にとって相応しいんじゃないかと思ったんです。
ーーその可能性もまた、ご自身が小説家として書き継いできた実感と無縁ではないのではないでしょうか?
岩井 実感というより、願望に近いですね。名前も顔も知らない誰かが私の小説を手に取って読んでくれて、例えば「面白かったな」だけでもいいんです。感情の揺れをさざ波程度でも起こせたら、その人の何かをほんの少し変えることに繫がっていくかもしれない。それはものすごく大きな希望だなと、私自身は思っています。一方で、私は最初の本を出してからもうすぐ丸4年経(た)つんですが、小説を書くことってそんなに楽しくないなと思うこともありますし、面倒くせぇなあみたいな日も時々あります(笑)。でも、「自分が思い付いたこの物語は、自分が書かなければ誰も書かないんじゃないか?」と。そこから「やっぱり自分が書くしかないよね」となることも多いんです。先人たちの書いた小説に導かれて、岩井圭也という小説家が生まれたのと同じように、もしかしたら自分の小説が、未来の作家や作品に繫がっていくのかもしれない。その予感が実感に近いものとして感じられるようになったからこそ、『生者のポエトリー』の、特に最終話はこんな形になったのかもしれないですね。
ーー第一話には、デビュー直後だったからこそ出せたリアリティがあった。でも、最終話は、プロとして書き続けてきたからこそ出せるリアリティが宿っていったわけですね。
岩井 もしも第一話を書いた1年目に全編を書いていたら、まったく違った話になったと思います。時間をかけて書き継いできたからこそ、デビュー当初の初期衝動から今の自分が抱えている使命感がグラデーションで繫がっていく、約4年間の作家としての足跡を残すことができた。この小説を書き終えて思うのは、物語の構えが“大きい”とされる『水よ踊れ』でも、逆に“小さい”構えの『生者のポエトリー』でも、自分の小説に共通するものがあるんじゃないかな、と。「人が、人生をより良くしていくにはどうすればいいのか?」というテーマです。これからもそのテーマをいろいろな状況の中で考え、何かしらの前向きな提案をできるような小説を書いていきたい。結果、今まで以上に作風はバランバランになっちゃうと思うんですけどね(笑)。
『生者のポエトリー』刊行記念インタビュー
取材・構成/吉田大助
撮影/山本佳代子
※小説すばる2022年5月号転載