なぜオシムは日本を選んだのか

木村 どんなことを話したんですか。

祖母井 率直に自分は今、ジェフのGMで、日本に興味があるんやったら来て貰いたいと話しました。そうしたら、次男の就職が来年の1月15日に決まるとかで、それまで俺は何も言えないということでした。そこからは失礼ながら毎日電話しました。

木村 あの時(2003年の)はジェフだけが年が明けても監督が決まっていなかったんですが、そういう理由があったんですね。

祖母井 そうです。もう親会社からは、散々、何をやっているんだと言われました。それで1月15日にあらためて電話したら、次男の就職は無事、決まったと、しかし酔っぱらってるような雰囲気だし、「それじゃあ明日そちらに飛びます」って伝えて翌日の飛行機でグラーツに行きました。

木村 当時のオシムさんにはミヤトビッチがレアルからオファーを出していたし、バイエルンも動いていた。そんな中でジェフに決めた理由は何だったのでしょう。

祖母井 これはクラブの人は誰も知らないんですけど、実はその時、選手寮のコックさんだった北村さんを一緒に連れて行ったんです。それで寮での育成や食事を大事にしていることがわかってもらえたと思うんです。北村さんには、グラーツのマーケットにも行ってもらってオシムさんの好きな食材のチェックまでしてもらいました。

木村 祖母井さんは、そういう裏方さんの大切さや、難民支援などのサッカー以外の社会的な活動まで幅広く熟知しているので、オシムさんも信頼されたのでしょう。本書の冒頭に出てきますが、大分トリニータやFC東京、セレッソ大阪、町田ゼルビアの監督だったランコ・ポポビッチのことを僕に教えてくれたのも、祖母井さんでした。

2005年の大晦日に、オシムさんや古沼さん(貞雄元帝京高校監督)と一緒に、浦安の「泰興」さんで食事をしているときに、「サンフレッチェ広島にコーチとして来たポポビッチさんは、コソボのセルビア人ですよ」と。彼はコソボの聖都ペーチ出身で、99年のNATOの空爆を受けて、家族とともに故郷から追い出されてグラーツでオシムさんに出会い、日本にやってきた。言わば政治難民でした。

祖母井 ポポビッチはグラーツの会長との仲が非常に良かったので、マリオ・ハースを入団させるときに協力してもらいました。