ファーストアルバムは「グラムロックの残りカス」と評された

1973年9月5日、フレディ・マーキュリーが27歳の誕生日を迎えたのは、クイーンがファーストアルバム『戦慄の王女』をリリースして2ヶ月が過ぎた頃だった。

アルバムにはドラマチックな展開やハイトーンなシャウトといった、クイーンの特徴的なサウンドが現れていたが、批評家からは「グラムロックの残りカス」などと酷評されてチャートインすることすら叶わなかった。

この頃のクイーンはまだほとんど無名で、数多くある野心的なバンドの一つに過ぎなかった。

しかしアメリカでは、83位ながらもアルバム・チャートでトップ100入りを果たすことができた。ドラムのロジャー・テイラーによれば、それが最初の兆候だったという。

『戦慄の女王』(Universal Music)のジャケット。エフェクトをふんだんに使っていることや楽曲の構成の複雑さから、1973年発売当時は酷評を受けた
『戦慄の女王』(Universal Music)のジャケット。エフェクトをふんだんに使っていることや楽曲の構成の複雑さから、1973年発売当時は酷評を受けた
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10月からはデヴィッド・ボウイから提供された『すべての若き野郎ども』がヒットして人気を集めていたバンド、モット・ザ・フープルのツアーで前座を務めることになった。

批評家からはダメ出しされた彼らの音楽だったが、ライブに来た観客の反応はとてもよく、回を重ねるごとにファンは増加。遂にはモット・ザ・フープのツアーにもかかわらず、観客の半分がクイーン目当てに観に来るほどになった。

そんな中、同じプロダクションのデヴィッド・ボウイと仕事をしていた写真家のミック・ロックを紹介されたことから、バンドのヴィジュアル・イメージを固めるための写真撮影が行われる。

ここで撮影した、上半身裸で化粧をした男4人の写真は、またしても批評家から酷評を集めることになったが、これによってクイーンのイメージは確立したのだ。