叶うことはなかった“愛”
「人生が深刻な下降線をたどっていった時期の始まりだった」
──エリック・クラプトンは自らの1970年の後半をそう語った。
それまでは順調なはずだった。1969年に、大きな名声を得たバンド、クリームでの活動を終えたクラプトンは、次にスティーヴ・ウィンウッドらと“スーパーグループ”のブラインド・フェイスを結成してアメリカツアーを行った。
長年憧れ続けたブルース発祥の地(とりわけアメリカ南部)への音楽探究は、彼らの前座だったデラニー&ボニーとの出逢いを経て、いよいよ抑えきれないものとなっていく。
そして、本国イギリスで得た名声を捨て去るかのように(注1)、活動拠点をアメリカに移す。1970年5月には初めてのソロアルバムを発表。それからはデレク・アンド・ザ・ドミノスとして発表する曲作りに没頭した。
しかし、順風満帆に見えた音楽活動の一方で、クラプトンは秘かな想いに長い間苦しんでいた。
それは親友ジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドの存在。それは“報われぬ愛”だと知りながらも、クラプトンの心にはいつも彼女がいた。
「彼女が、僕たちの状況を説明する歌詞がたくさん出てくるアルバムを聴けば、愛の叫びに負けて遂にジョージを捨て、自分と一緒になるんだって確信していた」
こうしてパティへの愛は、1970年11月9日にリリースした不朽の名作『Layla and Other Assorted Love Songs』(邦題『いとしのレイラ』)となって告白されることなる。
だが、クラプトンの一途な想いは叶うことはなかった。
(注1)
そのきっかけはクリーム時代に、ザ・バンドのデビューアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(1968)を聴いた時から始まる。「あまりの素晴らしさにその場に立ち尽くしてしまった」とまでクラプトンに衝撃を与え、自分がやっている音楽に恥ずかしささえ覚えたという。また、ブラインド・フェイス解散後には、デラニー&ボニーのツアーにサイドメンバーの一人として同行。アメリカ南部の風景がクラプトンにとっての約束の地だった。