洋服は「鬼」や「悪魔」が着るもの

彼らと同じような体験をしたのが、播磨国(現在の兵庫県)で廻船業を営む家に生まれた浜田彦蔵である。嘉永4年(1851)10月、浜田は紀伊半島の沖で難破し、南鳥島付近でアメリカの商船によって救助される。この船中で浜田は航海士からフランネルのシャツと羅紗のズボンを貰っている。浜田は「からだがひどく窮屈なように感じた。でも洋服は自分の着物よりはるかに暖かだったし、そのうえ仕事をするのに便利だった」という。

着物から洋服に着替えた翌日には、航海士によって髷(まげ)を切り落とされてしまう。浜田は「私の心は悲しみに突きおとされた」と回想し、また不浄と考えられていた「四つ足の肉」を食べてしまったことを悲しんでもいる。だが、すべては「郷に入ったら郷に従えだ」と諦めるしかなかった 。

嘉永5年(1852)2月にサンフランシスコに到着すると、新しい洋服とともに靴を買い与えられている。浜田は町中で洋服を着て歩くアメリカ人を見て「黒い顔、白い歯、それに大きい赤い唇は、煤にまみれたような顔と対称をなしていて、おそろしくてぞっとするほどであった」と感じ、まさに「『鬼』(悪魔)にちがいない」と述べている。

洋服を着た外国人は「鬼」であり、浜田は鬼ヶ島の地から故郷に生きて戻れるか、神に祈願する思いであった。浜田は無事に帰ったら、神に自分の髷を切って奉納するつもりでいた。
このように「鬼」や「悪魔」と感じる外国人たちと同じような洋服を着てみたい、または散髪を行ってみたいと思う日本人は、この時代いなかっただろう。

洋服採用のきっかけは廃藩置県

映画やテレビドラマでは、明治に元号が変わるとすぐに和服から洋服姿へと変わっているものが少なくないが、いずれも視聴者に時代が変わったことを伝える演出であり、史実とは異なっている。明治政府で洋服・散髪・脱刀が許可されるのは、明治4年(1871)8月9日から洋服・散髪・脱刀姿で宮中や太政官に行くことが可能になってからである。

つまり、明治4年7月14日に廃藩置県が断行され、木戸孝允(たかよし)や大久保利通(としみち)ら旧藩士出身者が政府の要職である参議に就任することで、服制改革が実現したのである。藩が消え県となることにより、旧藩主と旧藩士との君臣関係は制度的に切り離された。明治新政府が発足してから4年間、旧藩士たちは彼らの上に位置する旧藩主や旧公家たちの意見に配慮しなければならず、新しい制度改革に着手することが難しかった。旧藩士出身者たちは天皇の臣下となったため、旧藩主に遠慮することなく改革に着手できた。