「中学時代は無名」キャプテン畑山の凄み

攻守の起点だった畑山は、生粋のポイントガードである。

シカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンと双璧を成すスーパースターでもあった、ロサンゼルス・レイカーズのマジック・ジョンソンに憧れ、ノールックパスをよく真似ていた。

能代工を意識するようになったのは小学生時代で、3冠に輝いた91年に攻撃の要だった小納真樹と真良のツインズに魅了された。とはいえ、畑山の雄物川(おものがわ)中時代の最高成績は秋田県3位。全国的に無名だったことで、当初は同じ県南地区で面識があった須川中の小嶋と、「横手工業に行って能代工業を倒そう」と話していたくらいだった。それが、同地区の阿部弘幸を含めた3人が能代工の監督である加藤から誘われたことで、名門校への進学を決意した。

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田臥の1つ上の代で活躍した畑山陽一さん

入学時のガードとしての監督の評価は、中学時代から県内で名が知られていた斎藤直樹や、群馬・桜木中で全国大会に出場した西條佑治のほうが高かったという。

そんな畑山が、1年生時のインターハイで名を轟かせるなど、着実に立場を確立できた理由のひとつは、前向きな性格にあった。

3年生を前にして体育館のステージで歌唱力を披露する度胸、誰とでも気さくにコミュニケーションをとれる明るさ。「畑山はいつもポジティブだった」と話すのは西條だ。

「プレーでミスをしても引きずらないんです。だから1年のインターハイ決勝だったり、いいところで結果を出せるというか。とてつもなく勝負強い奴でした」

そして畑山は、自身の能力に驕らず、常に課題に向き合う姿勢を体現していた。それは3年生になっても変わらなかった。

当時1年生だった堀里也が証言する。

「自主練習で欠かさず3ポイントシュートをやっていましたね。下級生の練習時間を確保してくれるためなのか、ものすごく集中していました。『300本入れるまで終わらない』みたいなルールを設けていたと思うんですけど、めちゃくちゃ入ってたんで、そんなに時間はかかってなかったです。『すげぇな』って驚かされましたね」

そんなキャプテンがまとめ上げ、「完璧な勝利」を追求していた当時の能代工は、その完成度の高さを全国に知らしめていく。