満場一致で選ばれた「マネージャー・金原」

金原も2年生の夏までその境界線で戦っていた。

宮城県の古川中時代は、ポイントガードとしてチームを新人戦優勝に導くなど、地元で有名な選手だった。同じ東北地区の能代工にはもともと憧れがあり、中学の先輩もそこに進んだことから「自分も挑戦したい」と進学を決めた。花形ポジションであるガードにはライバルも多かったが、金原はその資質をプレーヤーではなくマネージャーとして見出された。

2年生だった95年のインターハイが終わったあたりの頃だ。金原は監督の加藤三彦から「次期マネージャー」の打診を受ける。

一般的にマネージャーと言えば「雑用」のイメージがつきまとうが、能代工は違う。言うなれば監督の腹心、助監督と表現してもいいくらいのポジションである。加藤は話す。

「能代の選手で一番すごいのはマネージャーです。プレーヤーとして通用する実力がありながら、なおかつ監督と選手から一目置かれるような人間性がないと務まりません」

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仮に加藤から任命されても、選手が反対すれば実現はしない。それほど重要なポジションなのである。

歴代のマネージャーには「プレーヤーとして勝負したい」と、最初は固辞する者も少なくなかったが、金原はすぐに受け入れたという。

「三彦先生から、『今のチームにはお前のような人間がマネージャーに適任だと思う』って言っていただいて。『自分は必要とされているんだ』って思えたんですね。だから、精一杯、頑張ろうって決断できました」

加藤から告げられた練習後、仲間たちに打ち明けると全員が頷いた。

「うちらの代なら、お前しかいないよ」

全体練習を統制するマネージャーは、自主練習で後輩の指導も任された。ゴール下で、体格に優れたセンターが身長160センチの金原に押し返される。そんなフィジカルの強さから、後輩たちに“筋肉ダルマ”とひそかに恐れられていたのは、彼が選手時代から積み重ねてきた努力の賜物でもあった。