どんな問題でもひたすら権力者を非難する人々

ただし、政治哲学においても、個人の責任という概念が放棄されることはない。あくまで、私たちの日常的な感覚に基づく「ほどほどの自己責任論」に比べて個人の意志や選択とそれに伴う個人の責任を低く見積り、代わりに運や環境の影響とそれに伴う社会の責任を高く見積もる、というだけである。

そして、どこまでが個人の責任でどこからが社会の責任かという線引きをできるだけ正しいものにするため、責任の「基準」をめぐって、政治哲学者やリベラリストは議論し続けているのだ。

左派の人々も、社会や政治についてまともに考えていれば、個人の責任という発想を放棄しようとは思わないはずだ。

しかし、彼らは「この問題は個人の責任にして、この問題は社会の責任にするほうがふさわしい」という基準を論理的に示しながら他人を説得することから逃げている。

その代わりに、市民を「状況に左右されるだけの無力な犠牲者」と表現しながら、どんな問題についてもひたすら権力者を非難して、個人の責任は一切存在せず全ての問題が社会によって解決されるユートピアを喧伝し続けている。

だが、社会とは相互に対等な個人同士の協力によって成り立つものであることを失念してはならない。また、責任という概念を一切抜きにした人間観を持つことは、大半の人にとって不可能だ。

たとえば、社会保障や福祉が「無責任な人の生活を支援して、努力しない人たちにも努力する人たちと同じくらい恵まれた生活を保証するものだ」というイメージを抱かれるようになったら、人々はそのような社会システムを維持することに協力しなくなるだろう。

したがって、左派が行うべきは、他人のことを権力の手先の悪者だと罵ったり洗脳された愚か者だと見下したりしながら、実現不可能な理想を唱え続けることではない。責任に関する「基準」を提示しながら、平等や正義の理念を根気強く説得し続けることが必要なのだ。

文/ベンジャミン・クリッツァー