「ほどほどの自己責任論」とは

「手取り15万円」がトレンド入りするのは、本当に政府の責任なのか?_2

しかし、わたしが観察したところ、問題は逆である。つまり、一般の人々が「自己責任論」という思想によって洗脳されていることではなく、責任に関するバランスの取れた思想が一般の人々に充分に伝わっていないことのほうが、問題の原因であるのだ。

以下では、まず、個人の責任を強調する意見はなんらかの思想に影響されたものでなく、ごく一般的な心理に基づくものであることを示そう。

そのうえで、「個人の身に起こっている問題を改善するために、社会が補助しなければならない」と主張するためには素朴な心理を思想によって修正する必要があることを論じる。

たとえば、あなたの身近な友人が「手取り15万円で生活がままならなく困っている」と嘆いていたり、「食品価格の高騰で生活が厳しくなってきた」と愚痴をこぼしたりしているとしよう。おそらく、大半の人は、友人の嘆きや愚痴を無下に否定せず、「大変だね」と共感を示すはずだ。

しかし、その友人が「私がこんなに辛くなるような社会はおかしい、私の問題は社会が変わることによって対処されるべきだ」と言い始めたとしたら、「そんなことを言い続けても仕方がないから、自分で問題に対処する方法も考えるべきだよ」とアドバイスしたり叱咤したりする人のほうが多いだろう。

さらに、嘆きや愚痴は言い続けるのに、現状を変えるための行動をする様子が見受けられないような相手には、いくら親しい友人であっても良い印象を抱かないはずだ。

つまり、友人関係や社会生活などの日常的な領域では、多くの人は「ほどほどの自己責任論」を前提にしながら生きている。

「ある人の身に起こっている状況の全てが本人の責任であるというわけではないが、ある程度までの物事は本人の責任の範囲内にある」ということは、常識的な感覚として、私たちの生活の前提となっているのだ。

こうした「ほどほどの自己責任論」は、心身の発達や他人とのコミュニケーションを通じて自然と身に付く価値観である。そもそも人の経験する状況は「運や環境」と「本人の意志」のどちらにも影響されることや、人は自分の行動や選択に責任を持つということを前提にしなければ、「頑張って成果を出した人間はより多くの報酬に値するが、サボっていて他人に労力を押し付けた人間は報酬に値しない」といった単純なルールも設けられない。

そうなると協力や集団生活が不可能になり、社会やコミュニティを維持することができなくなってしまう。したがって、時代や場所を問わず、ほとんどの社会において人々は「ほどほどの自己責任論」を前提に生きてきたと言えるだろう。