「生身の姿をさらけ出すような思い切った行為だった」光宗薫が絵画アーティストへの道を歩み続ける理由_5

周りと繋がりを絶った日々のなかで、
ふと手に取ったボールペンが自分を教えてくれた

――そして芸能活動を休止し、1年間実家に籠もられた。

人を感じたり、接したりしたくなかったのでテレビもネットも遮断していました。次第に月日の感覚がなくなり、あるときから、“今日が何日なのか”を忘れないためにボールペンで日記を書き始めたんです。

でも、人に会わず部屋の中にいるだけだと、日々何が起こるわけでもなかったので書く内容がなく、絵なら描けると絵日記にしました。

――今や光宗さんの代名詞とも言えるボールペン画の始まりは絵日記だったと。

そのとき目の前にあった“無印のボールペン”で描き始めたのですが、この無印のボールペンは筆圧の強弱で陰影が出るのが好きで今も使い続けています。

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――最初に描いた絵日記はどんな内容だったのでしょうか。

食べ物の絵です。摂食障害からくる食欲を抑えたい気持ちと、食べ物を見ていたい気持ちを絵にして整理したかった。気づくと絵を描くこと自体が楽しくなり、いろいろなテーマを大きな紙に描くようになりましたね。

絵日記が貯まるにつれ「これを人に見せたらどうなるのだろう……」という考えが浮かんできました。

――そこから絵を見せるに至る心境の変化はどんなものだったのでしょう。

自分を含めた色々な物事への憤りから絵を描いていましたし、これまでの活動経験から本心はさらけ出さない方が無難だと学んでいたこともあり、見てもらうことを躊躇する気持ちがありました。

しかし、同時に誰かに絵を見て、自分を知ってほしい気持ちも強くありました。当時は引きこもっていたので、自分には失うもの自体あまりない。それこそ、裸をさらけ出すくらい思い切った行為だけど、最終的には『いいや、見てほしい』と。

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ボールペンのインクがだまにならないように“だまとり”をしている紙。絵を描き始めた当時のもの

――そして2013年の初個展「スーパー劣等生」を迎えるわけですね。

皮肉なタイトルですよね(笑)。個展開催直前の気持ちは今でも鮮明に覚えていて、『過去最高の自爆行為だ!』くらいに昂っていたのですが、いざ開催してみると世間の反応は拍子抜けするくらいナチュラルな評価でした。

自分で犯したと思っていた、負の感情を表に出すという“タブー”への反応はあまりなく、『自分の内側って絵を通してならば出しても怒られないんだ。じゃあ、これからも絵を通せばどんな感情でも表現できる』と何かがストンと落ちた気がして、社会への向き合い方が一変しました。

同時に、開催期間の68時間を丸々個展会場内の小さな箱の中で過ごすインスタレーションを行い、最終日には人生で初めてやりきった達成感や自己肯定感を得ました。

与えられたものに全力で応える人生だったので、初めて自分で0から100まで考えて制作し完結する喜びを感じたんです。

――この初個展を経て、ボールペン画家として歩む決断をされたのですか?

これが自分の道と確証を得たわけではなかったです。絵を描き、見てもらうことでしか自由を感じられなかったので、手放したらこの開放感が逃げていく気がしました。だから絵を描くこと、とりわけ個展を重要視しているのかもしれません。

私は自分が満足いく形まで突き詰められるものがないと、ストレスが溜まってしまうタイプなのだと思います。個展のようにテーマを持って絵を描くことは、気持ちのガス抜きの側面もあると思います。絵は納得のいくまでいつまででも待ってくれますし、知らない間に形を変えたりしないところが大好きです。

でも、そんなパーソナルな個展活動も、回を重ねるごとに“見に来てくださる方”にどう映るか、どうしたら想いを伝えられるかということを意識するようになっていきました。
今度は、そうした楽しくも難しい試行錯誤がはじまりました。

後編:光宗薫の画家として歩いた9年の日々はこちら 〉〉〉

取材・文/TND幽介(A4studio) 写真/井上たろう