答えのない問いを考える
さらに、世の中には答えのない問いがあることを学ぶことができます。
私は小学生の頃、祖父、祖母、弟を次々に亡くし、人生には死というものがあることを知りました。
今はこんなふうに考えたり、感じたりしているのに、そのすべてが無になる。これほど怖いことはないと思ったのに、大人たちは死のことを何も考えていないように見えました。死ねば自分が無になるかもしれないというのに、死のことをまったく考えないでどうして笑って生きていられるのだろうか。私には不可解でした。
それなのに、私にとって一番の関心事だった死について親にたずねた記憶がないのです。たずねたけれども答えてもらえなかったのではなく、あるいは、たずねたのに答えをはぐらかされたのでもなく、死については初めから親にたずねてはいけないと考えたのかもしれません。
私は死について考え始めるとすべてが空しくなってしまい、長く鬱々としていました。そのことに親が気づかなかったとは考えられないのですが、どれくらいこの状態が続いたか、また、どのようにしてその状態から抜け出したかは覚えていません。死について考えなければ、無邪気に子ども時代を生きられたかもしれませんが、死というものがあることを知って思い煩った経験が哲学を学ぶ一つのきっかけになったのは間違いありません。
その後、私は哲学を学び、死について考え続けてきましたが、この問いへの答えは見出せていません。三木清は「死は観念である」といっています(『人生論ノート』)。誰一人として死んでからこの世界に生還してきた人はいないのですから、死とは何かということについては体験できないので、それがどういうものなのかについては考えるしかないということです。
中学生の頃、パスカルの『パンセ』を読んでいた時に、人間は身の回りの空間に支えられているけれども、その空間はまたそれを取り巻く空間に支えられており、その空間もさらに広大な空間に支えられていて、この関係が無限に続いているというようなことを考えていたら、頭がクラクラする思いをしたこともあります。
このようなことは考えない方が幸せなのかもしれませんが、知ってしまった以上、元に戻ることはできません。
答えがない問いを考えることには意味がないと考える人がいるかもしれません。しかし、死そのものが何かはわからなくても、死を前にして感じる不安や恐れは生者が体験することであり、それにどう向き合うかは考えることができます。
自分だけではないことを知る
最後に、学ぶことで、自分と同じ経験をした人がいるという事実を知ることが救いになります。自分とまったく同じ経験をしている人がいるはずもありません。しかし、自分だけが苦しくて不幸な人生を送っていると思い詰めていた人でも、人の話を聞いたり、本を読んだりすることで、自分の置かれている状況を冷静に客観的に見ることができるようになります。
失恋した人は絶望し、生きる勇気を失ってしまいます。そのような時に、失恋してもまたすぐに好きな人は現れるに違いないなどと軽々に慰めの言葉をかけるような人を信じることはできなくても、失恋した人の心の動き、失恋の痛手が活写された小説を読むと、自分のことが書かれていると思うかもしれません。
失恋した人は、自分でなくてもよかったのだ、自分は選ばれなかったと知った時、自信をなくすかもしれませんが、失恋してもそのことで自信をなくす必要はないことを本を読んで学ぶかもしれません。
本を読んでも、どうすればこの苦しみから抜け出せるかについては何も書かれていないかもしれません。しかし、この苦しみを経験したのは自分だけではないということを知っただけでも、自分に起きていることの受け止め方が違ってきます。
これは決して現実から目を逸らすという意味ではありません。自分が置かれている状況を客観的に見直すということです。さらには、冷静になって自分のことだけではなく相手のことも考えられるようになります。
このような時でも、誰かから話を聞いたり本を読んだりすることで、今自分が経験している苦しみは自分だけでなく多くの人が経験してきているのだと知れば、自分が置かれている状況からの突破口を見出すきっかけになります。たとえすぐに答えが見つかるというわけではないにしてもです。
人生をどう生きるかを決める
人生が有限であることを思い知るような経験をし、何のために人は生きるのかと考え始めたり、対人関係に何らかの仕方で躓いたりすると、どうすれば幸福に生きることができるのかと考え始めます。
他の人と同じような人生を生きているのであれば迷うことはないでしょうが、どうすれば幸福に生きることができるのかというようなことを自分で考え始めれば、このような問いに対しても答えはすぐには見つからないことがわかります。
残念ながら、多くの場合、親はあまり力になれません。誰もが生きるような一般的な人生は知っていても、例えば、高校に進学しないというようなことを言い出したら、親はたちまち答えに窮してしまいます。
それでも、自分の人生を生きなければ、一体誰が自分の人生を生きてくれるというのでしょう。子どもの頃から大学に進学し会社に就職すれば幸福になれると親に言い聞かされ、自分でもそう思っていたところ、いざ進学したり就職したりした時に自分が思い描いていたような人生ではなかったことに気づいても、親は子どもの人生に責任を取ってくれたりはしないのです。
自分の人生を生きるためには、親が勧めるような人生とは違う人生があることを知り、まずは自分でどんな人生を生きるかを決めなければなりません。そのためには、一般的な考え方に囚われず自由に考えることが必要ですが、学ぶことによってそのように考えられるようになります。
文/岸見一郎