競争のために学んではいけない
人生は他者との競争ではない
学ぶことに目的を設定し、その上、他の人と競争する人がいます。そのような人は、例えば、大学受験を競争だと見ます。しかし、受験勉強が競争であるかは自明のことではありません。
受験に限らず、多くの人が人生を競争と見ています。幼い頃から何でもかんでも競争させられるからです。それほど競争はありふれたことですが、だからといって、競争することが当然ということにはなりません。
今の世の中、競争することは当たり前のように考えられています。アドラー心理学者のリディア・ジッハーは「競争はありふれたこと(usual)ではあるが正常(normal)ではない」「人間は協力し貢献するものであって、生まれながら協力の感覚を持っている」といっています(The Collected Works of Lydia Sicher)。子どもたちをほめたり𠮟ったりして育てると、親が必ずしも意図していなくても、子どもたちを競争させることになってしまいます。
もしも親が勉強ができることに価値があると考えていれば、子どもの成績がよくなければ𠮟るでしょうし、成績がよい子どもをほめます。そのため、きょうだい間に競争関係が生じます。最初はどの子どもも勉強しますが、兄や姉があまりに優秀であれば、勉強では勝てないと思って勉強しなくなることがあります。
勉強が好きな子どももいれば、そうでない子どももいて当然ですが、勝つために勉強するのも、勝てないとわかったら勉強しないというのもおかしいのです。もちろん、誰もが勉強しなければならないわけではありません。スポーツや芸術で力を発揮する子どももいます。そのような子どもも秀でるためには、学校の勉強とは違った意味で勉強する必要がありますが。
受験を他者との競争であると考える人は、試験でいい点数を取ることしか考えません。しかも、大学に進学するのは、何かを学ぶためではありません。卒業後の就職のことを考えているのです。よい成績を取れば就職できるでしょうが、卒業しなければ就職もできないので、単位をいかに効率的に取るかを考えます。
大学に入る時も、とにかく、大学を受験して合格しなければその後の人生設計を立てられないので、法学部であれ経済学部であれ片っ端から受験して、合格した大学によってその後の人生を考え始める人がいます。しかし、法学部に行くのか経済学部に行くのかでは、その後の人生が大きく変わってくるはずですが、そんなことも考えない人は多いように見えます。
このような選択の仕方は非常に現実的であるともいえますが、自分の人生なのに、それを自分でどう生きたらいいかわからないというのでは心許ないといわなければなりません。
たしかに、大学で学んでみたいことがあっても、入学試験に合格しないと何を学ぶかを考えても意味がないという人はいるでしょう。そもそも、何かを学ぶために大学に進学する人がどれだけいるでしょうか。何かを学ぼうというよりは、大学卒業後にどんな仕事に就くのかということを考えて大学を選ぶ人の方が多いかもしれません。
仕事のことも考えず、有名大学であればどの学部に進学してもいいと考える人もいます。有名大学に入りたいがために受験した大学に合格できず、結果的に何年も空費してしまう人は多くいます。
受験となると定員が決まっているので、それを上回る数の人が入学試験に臨めば、少しでもいい点数を取らなければ合格できません。そこで、受験は他の人との競争だと考えるのですが、競争以前に知識を身につけなければなりません。その段階での学びは他者との競争は関係ありません。