戦中・戦後の記憶をつなぐ昭和館

私自身も1942(昭和17)年の戦中生まれで、すでに80歳です。終戦時はわずか3歳で、戦争も、終戦を国民に告げた昭和天皇の玉音放送の記憶もほとんどありません。昭和館の館長を務める私でさえ、戦争を知らない世代なのです。

私は郷土の山口県萩市で終戦を迎えました。軍事施設もない山村で空襲の被害はありませんでした。

のどかな農村でしたが戦争の傷とは無縁ではいられません。村には、旧満州や朝鮮半島から遺体をかき分けるようにして引き揚げて来た人びともいました。太平洋の激戦地から復員してきた近所のおじさんがあるとき、ボソリと「戦場で人を食べた」と漏らしたことがありました。

幼いながらも、衝撃を受けました。私に聞かせたわけでも酒に酔って話したのでもない。抑えきれない苦しみが言葉となってこぼれたのでしょう。

子ども心に感じたのは、犠牲になるのはいつも庶民なのだということです。

ここ昭和館には、全国の空襲被害を示すタッチパネル表示や写真もあります。

戦後70年の節目には秋篠宮ご夫妻と次女の佳子さま、長男の悠仁さまが来館されました。当時、お茶の水女子大付属小3年だった悠仁さまは、「やっぱり広島は多いの?」と質問しながらタッチパネルを操作なさり、秋篠宮さまが「原爆でね」と説明される場面もありました。

館内には、戦前である1935(昭和10)年から戦時中、そして戦後の55(昭和30)年ごろまでの人びとの暮らしの様子がわかる資料や生活用品が展示されています。

9月4日まで開催中の特別企画展「お菓子の記憶~甘くて苦い思い出たち~」では、子どもたちの大好きなお菓子に注目しました。バターや小麦粉を使う西洋菓子の製造技術が入ってきた明治から、砂糖の配給すら止まりお菓子がほぼ姿を消した戦時下、そして闇市の広がる戦後まで――。変化するお菓子を通じて見える発見もあります。

「犠牲になるのはいつも庶民」。上皇に11年間仕えた、モノ言う元長官の語る戦後史_2
9月4日まで開催中の特別企画展「お菓子の記憶~甘くて苦い思い出たち~」。手作り菓子を樹脂で再現するにあたり、当時のレシピで学芸員が実際に自宅で作ってみたという(写真:昭和館提供)

いまもお馴染みの森永ミルクキャラメルは、1899(明治32)年に登場。カレーや天丼が一杯7銭の時代でもキャラメル10粒入りで10銭と高級品だった。学芸課長の林美和さんは、「砂糖や牛乳、バターなどを使うキャラメルなどのお菓子は、栄養豊富で滋養を得る食料という位置づけでした。日中戦争期になるとお菓子は体格の貧弱な日本人の兵隊の身体を強くするために戦地に送られ、一般の子どもの口には入りませんでした」と話す。砂糖は飛行機の燃料にもされ、闇市にはパッケージを真似した偽物のお菓子も出回ったという。