世界最高峰の舞台へ再び

――それから十一年の時を経た二〇一〇年。いよいよ今回の馳さんの小説に関わるナカヤマフェスタで再び凱旋門賞に挑むことになります。蛯名さんの当時の心境はいかがでしたか。

蛯名 騎乗させてもらえることが決まったときは、ああ、またあの舞台に戻れるんだな、とすごく嬉しかったのを覚えていますね。

馳 ナカヤマフェスタはエルコンドルパサーに比べると、ずいぶん扱いが難しい馬だったと聞いています。

蛯名 なんて言ったって、あのステイゴールドの子ですからね(笑)。人間の言うことを聞かず、ランドセルを放り投げてすぐに遊びに行っちゃう子どものようなタイプでしたから。

馳 そんな日本にいても難しい馬が、突然海外へ連れて行かれるとどうなってしまうんですか。

蛯名 実はこれがちょっと意外でして。ナカヤマフェスタにとっては初めて訪れる場所なので、どこへ行けば帰れるのかもわからないから、嫌々ながらも大人しくしていたんです。日本で見せていたような扱いづらさもあまりなく、調教も普通にできていましたね。

馳 慣れない環境というのが逆に良かったんですかね。ステイゴールド自身もそうでしたが、ステイゴールド産駒って、海外に行くと日本で見せたことのないようなすごい走りをするじゃないですか。環境が変わると、悪さをするタイミングもなくなっちゃうみたいなことなんですかね。

蛯名 馬の防衛本能なんだと思います。草原に放たれた馬がライオンに襲われないようにいつも緊張感を持っていないといけないというのと同じで、新しい環境に置かれると集中していなければならないという意識が働く。特にその本能に長(た)けているのがステイゴールドの血統の特徴なのかもしれません。

馳 それはおもしろい話ですね。スタッフのみなさんはエルコンドルパサーで挑戦されたときよりも現地の環境に対応できていたんですか。

蛯名 ええ。引き受け先の厩舎も同じで、競馬場内でもどこに何があるかというのがわかっていましたので。そういう意味では初めて挑戦したときと精神的にはかなり違ったと思います。結果は2着でしたが、日本ではGⅠ勝ちが一つだったナカヤマフェスタが好走したことで、日本の競馬界が凱旋門賞に積極的にチャレンジするようになる一つのきっかけを作れたんじゃないかと思います。

――翌二〇一一年には再びナカヤマフェスタで凱旋門賞に挑むことになります。

蛯名 ナカヤマフェスタは頭の良い馬でしたから、二年目の挑戦のときはもう環境に慣れてしまっていました。調教場の出入り口がどこにあるかも完全に覚えていて、調教中にいきなり帰ろうとするんです。反抗して動かなくなることもあったし、どこかへ行ったまま戻ってこないこともあった。乗り手を振り落とすこともあって、実際、僕も落とされました。

馳 本当に頭が良いんですね。蛯名さんはもちろんですが、その調子だとスタッフの苦労も並大抵じゃないですよね。

蛯名 調教するコースを毎回変えるなど工夫はしていたのですが、二年目にはもう行き尽くした感もあって、ますます調教ができなくなりました。だから、仕上げるのも難しくて、結果は11着と大敗でした。

馳 そんなナカヤマフェスタも引退して年齢を重ねた今ではずいぶん穏やかになったと聞きましたが。

蛯名 僕もそう聞いて牧場へ見に行ったことがあるんですが、いきなり立ち上がっていましたね。騎手時代の僕を覚えていて、鞭で叩かれると思ったのかもしれません(苦笑)。

馳星周 × 蛯名正義「凱旋門賞 ~ホースマンたちを魅了し続ける夢舞台~」_3
えびな・まさよし ◆1969年北海道生まれ。1987年騎手デビュー。1996年バブルガムフェローでGⅠ初勝利(天皇賞・秋)。2001年には有馬記念初制覇をはじめGⅠを4勝し、JRA(日本中央競馬会)の全国リーディングジョッキーに輝く。2012年JRA通算2000勝を達成。凱旋門賞では1999年にエルコンドルパサーで、2010年にナカヤマフェスタで日本人騎手最高着順となる2着を二度果たす。2021年騎手を引退、2022年3月1日付で厩舎を開業し、調教師として新たなキャリアをスタートさせた。

まだ見ぬ勝利を夢見て

馳 いまだ日本馬が勝つことができていない凱旋門賞ですが、レースの舞台となるパリロンシャン競馬場の馬場は日本とはずいぶん異なると言われています。実際はどうなのでしょうか。

蛯名 明らかに日本の馬場とは違いますね。脚が埋まっちゃうというか、スタミナが奪われていくというか。とにかく重くて軽快には走れないという感じです。

馳 それだけに蛯名さんが騎乗されたエルコンドルパサーにしてもナカヤマフェスタにしても接戦の2着というのは価値があるし、他にもナカヤマフェスタと同じくステイゴールド産駒のオルフェーヴルが二〇一二年、二〇一三年と二年連続で2着になっている。これだけステイゴールド産駒が結果を出しているのには何か理由があるのでしょうか。

蛯名 彼らの持つ馬場適性もあるとは思いますけど、エルコンドルパサーにしてもオルフェーヴルにしてもそもそもの能力が高かったというのは大きいですね。ナカヤマフェスタは気性の問題もあって安定して走れる馬ではなかったですが、自分の力を発揮したときにはすごい走りを見せた。やはり絶対的なポテンシャルの高さが重要になるのは間違いないでしょうね。

馳 なるほど。日本の競馬では一流になれなくても、とにかく道悪(みちわる)(状態の悪い馬場)だけはすごく得意というような馬で挑戦したらどういう結果になるのかな、という考えを素人なりに持っていたんです。そのあたりのお話も小説の参考にさせてもらいます。

蛯名 あとは金銭面でのハードルもありますね。そこを馬主さんに理解してもらわなければいけない。

馳 お金はかかりますよね。だけど、大枚をはたいてでも挑戦したくなるような夢が凱旋門賞にはあるわけですね。蛯名さんは調教師という立場になられたわけですが、やはり海外にも挑戦したいという思いはありますか。

蛯名 もちろんありますね。いつかはあの舞台に戻りたいと考えています。