実はモテる桜太郎先生

安壇 浅葉は書き始める前はこの経歴でいいのかな、こんな感じでいいのかなという迷いはあったんですけど、腹をくくって書こうと決めて、書き始めたら書きやすかったんです。
 出だしが、主人公の橘樹(たちばないつき)と上司の塩坪(しおつぼ)が小難しい法律の話をああでもない、こうでもないと話す場面だったので、浅葉が出てくる場面は「さあ、どういう先生が出てくるんだろう」って何も考えずに書いたんです。そうしたら、フレンドリーな感じの人がポンと出てきたので「これはいいな」と思って。

篠田 桜太郎先生はいかにもチェリストですよね。

安壇 そうなんですね。チェリストの男性はモテるっていう情報だけ知っていて。

篠田 えっ、そうなの? そうでもないと思うけど(笑)。

安壇 インターネットの情報と、あと漫画の『のだめカンタービレ』のイメージで。実は浅葉はすごくモテるっていう設定なんです。そのへんはあまり書いてないんですけど。
 主人公の橘が内向的なので真逆の性質。外向的な性格で人懐っこい。受付の人とかともじゃんじゃんしゃべってるような感じの人ですね。

篠田 海外に何年か行っていた人独特のさばけ方だって感じましたね。留学してきて、構えずにコミュニケーションをとっていくっていう感じ。リアルですよ。
 桜太郎先生は、初めて出てきた時に、雨で濡れたからとスウェットの上下で現れますよね。私のチェロの先生とそっくりそのままですよ。食事に出たら雨でびしょ濡れになっちゃってって、すり切れたペラッペラの、首周りが伸びちゃった半袖Tシャツで現れて「すみません、こんな格好で」って。

安壇 リアル桜太郎先生ですね(笑)。

篠田 うちの先生はそんなにモテないと思いますけどね(笑)。
 音楽教室の雰囲気もいいですよね。ご自身が通われてたのかと思うくらいによく書けているなあ、と。

安壇 書き始める前に一回だけチェロの無料体験レッスンに行ったんです。こういう雰囲気なんだってつかめたものはありましたね。楽器の大きさとか、構えた時に何が見えるかとかがわかったので行ってよかったと思います。でも、弾くほうはぜんぜんダメで、続けて通うのは無理だと思いました。主人公の橘は子供の頃にチェロを習っていてけっこう弾ける人だという設定だったので、執筆中にここに通ったら、できない人の気持ちを乗せちゃいそうだと思って。
 あとは、最後のほうで原稿の微調整の時に、楽器を借りて演奏できるスタジオでチェロを触ってました。

篠田 ぜんぜん違うでしょ。触ってみると。

安壇 違いますね。楽器に触れた時にしびれるような感覚があって。YouTubeとかで演奏を見ているだけではわからなかったです。

音楽を文章でどう表現するか

安壇 篠田先生はチェロをお弾きになるんですよね。『ラブカ~』でチェロを選んだのは、クラシックの中ではバッハの「無伴奏チェロ組曲」が好きだからなんです。チェロの曲の中で最もいいと言われているそうですね。

篠田 ❝旧約聖書❞って言われてるくらいの古典的名曲ですね。

安壇 チェロを始められたのはなぜだったんですか。

篠田 大学時代に、素人で何も知らないままオーケストラ――学生オケ――に入ることになったんですよ。バイオリンは小さい頃から習ってらっしゃるみなさんがいて、管楽器は小中のブラスバンド部から上がってきてる人がいる。空いてるポストはヴィオラとチェロ。安壇さんと同じでバッハの「無伴奏」が好きだったので、いい楽器だな、いい音だなと思ってチェロにしたんです。
 でも、私は高校まで芸術科目は美術を選択していたので、楽譜は読めないし、リズム感もなくて。ついていけなくてオケはやめたんです。でもやっぱりやりたくなって、個人レッスンについて基礎からやり直していまに至ります。

安壇 チェロって、ずっと聞いてて嫌にならないというか。飽きが来ないですよね。でも、いざチェロの音を文章でどう表現しようかと思うと難しかったです。音楽の専門家が書いた評論を読んだりはしたんですが、小説でそれを書くわけにはいかないですし、小説に落とし込む段階では、自分の言葉で表現しないといけない。自分で原曲を聞いてどう感じたかを考えないと言葉にならないわけで。
 しかも橘はチェロ経験者だし、浅葉に至ってはプロ。その二人がどう表現するか。「私はこう思うんだけど、素人の意見で合ってるのかな」みたいなところを、気にしながら書きました。

篠田 ご自身で弾かれるのかなって思うぐらいすごくいい表現がたくさんありましたね。何の違和感もなかったです。
 ところで主人公の橘樹は子供の頃にチェロを習っていたんだけどやめてしまっていて、その理由にトラウマがありますよね。それはどこから?

安壇 連載のお話をいただく直前に、たまたまトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』を読んだんですよ。冒頭がすごくかっこよくて、簡単に言うと「FBIの行動科学課は建物の最下階にある」という内容の文章で、その一節が印象に残っていた矢先に電話が来たんですね。だから、『ラブカ~』の冒頭は「全日本音楽著作権連盟の資料室は陽の届かない地下にある」なんです(笑)。
『羊たちの沈黙』は、連続殺人事件と殺人鬼のハンニバル・レクター、それに主人公のFBIのクラリス・スターリングのトラウマ。この三本柱で組まれてるなって思って、私には音楽著作権をめぐる話だけではそんなに書けないなと思ったんです。それでクラリス・スターリング的な要素を入れようと思いまして。

安壇美緒×篠田節子「別世界に飛び込んでいくこと」_4