誰もが知っていた「高田馬場の決闘」       

高田馬場の駅名は、有名な決闘の場所となった高田馬場が由来だ。開業した時、誰もが堀部安兵衛を思い出したことだろう。

令和の日本を代表するヒーローと言えば、野球の大谷翔平選手であろうか。マスコミなどを通じて連日動勢が伝えられ、知らない人はいない。昔もこうした人気者が何人もいた。

特に歴史上の人物は、時が経つにつれてその功績が美化され、神様のごとく崇められる。

源義経、楠木正成などが代表で、誰もが名前を聞いただけで、その事績が思い出される存在だった。

江戸時代のそうしたヒーローの一人に堀部安兵衛(堀部武庸)がいた。これも昔の人にとっては常識とも言えた『忠臣蔵』の物語の中に、重要なエピソードとして出てくる、1694(元禄7)年の「高田馬場の決闘」に関わる主要人物だ。

安兵衛は後の1702(元禄15)年に赤穂浪士(四十七士)の一員となって吉良邸に討ち入り、褒め称えられた剣豪で、高田馬場の決闘では助太刀として加勢。“十八人斬り”などと誇張されて(実際に斬ったのは3人らしい)市井に伝えられた。

高田馬場とは現在の西早稲田3丁目にあった、江戸時代の旗本の馬術の練習場だった。

東京都JR山手線(東西線) 高田馬場駅
東京都JR山手線(東西線) 高田馬場駅
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今はマンションなどが建ち並んでいる場所で、高田馬場駅とは1・2km、徒歩で15分ほど離れているが、やはり当時としては駅前に等しい感覚だっただろう。そこから駅名が採られたのは、それだけこの決闘が後の歌舞伎、講談などで大人気の素材となり、人口に膾炙していたからに他ならない。

この馬場の近くの水稲荷神社の参道入口には、「堀部武庸加功遺跡之碑」が建てられている。新宿区教育委員会の説明看板によると、面白いことにこの記念碑が建てられたのは、高田馬場駅開業と同じ1910(明治43)年だ。当時は、日露戦争戦勝の後の国家主義の高まりを受けて、『忠臣蔵』の再評価が行われた時代であった。