福井光子が加藤和彦の楽屋を訪ねて
京都の平安女学院に通っていた福井光子(ミカ)が、加藤和彦と出会ったのは高校2年生、17歳の秋のことだ。
龍谷大学の学生だった加藤は、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーだったので、京都の若者たちの間ではちょっとした人気者になっていた。
ミカは同級生のとフォーク・デュオを組むことにしたとき、ファンだった加藤にギターのレッスンを頼もうと思い立って、フォークルが出演するコンサートに出かけて本番前の楽屋を訪ねた。そして首尾よくOKをもらった。
だがレッスンを引き受けてはみたものの、いざ始めてみるとなかなか二人は上達しない。そこで加藤がある日、こう言った。
「この先何年、あなたたちにギターを教えてもコンサートには間に合いそうにないから、とりあえず歌の練習をしましょう」
こうして加藤がミカ&トンコというフォーク・デュオのバックでギターを弾くことになり、そこからミカとの個人的な付き合いも始まった。
だが、1967年の秋にフォークルの「帰って来たヨッパライ」が爆発的に大ヒットしたことから、周囲の状況が一変してしまう。
フォークルとして1年間の限定で音楽活動を始めた加藤は、仕事のために東京に住むようになった。その直後、1968年2月に起こったセカンド・シングル「イムジン河」の発売中止事件に巻き込まれ、急きょ代わりにつくった「悲しくてやりきれない」がヒットするなど、加藤は多忙を極めて仕事に追われる日々となる。
それでも殺人的なスケジュールの合間をぬって、加藤は恋人に会うために京都に通い続けた。そして、大学生になっていたミカにプロポーズした。
母や妹が後押ししてくれたこともあって結婚を承諾したミカは、1970年の夏に日本のミュージシャンたちが北米を回る『ヤング・ジャパン国際親善旅行』に加藤とともに参加し、仲間たちに祝福されて旅先のカナダの教会で挙式する。
ミカの記憶によれば、サディスティック・ミカ・バンドが誕生したのは1971年の11月だったという。
ザ・フォーク・クルセダーズ解散後、ソロ・アルバム『ぼくのそばにおいでよ』や『スーパー・ガス』をリリースしていた加藤和彦は、本当のロックバンドをやろうと構想を練っていた。
最初のメンバーは加藤とミカ、それにドラムのつのだ☆ひろの3人。ただし、デビュー曲「サイクリング・ブギ」のレコーディングには、小原礼がベース、高中正義がギターで参加した。
そのシングル盤は1972年6月21日、加藤が東芝レコードの中に設立したプライベート・レーベル”ドーナッツ”から発売された。その時、つのだ☆ひろは自分のバンドを結成するために、すでにメンバーから抜けていた。
加藤はそこで前の年にロンドンの街角、ハイ・ストリート・ケンジントンを歩いていて、偶然にすれ違った高橋幸宏をドラムに迎え入れることにした。
こうした流れのなかで、11月になるとバンドの全体像が見えてきた。12月、初ステージとなった日大講堂での「年忘れコンサート」は加藤和彦名義だったものの、サディスティック・ミカ・バンドの事実上のデビューとなった。
ファースト・アルバム『サディスティック・ミカ・バンド』は、1973年5月5日にリリースされた。日本ではまだほとんど誰にも知られていなかった音楽、西インド諸島のレゲエやスカ・ビートを取り入れた先駆的な作品は、それまでにはないノリとサウンドで、当時としては新しい音楽だと話題になった。














