究極的に私たちはどのような社会を望むのか
たとえば家族における家事の分担はどうするのか、労働と家事はどのような配分にするのか、企業における仕事の配分や役割分担はどうするのか、政治における男女の比率の偏りをどう是正するのかなどです。
これらについては、さまざまな方策が提示されています。社会の各分野において活躍する女性の数が増えれば、決定される内容にも変化が起こるでしょうし、そのような女性たちがあとに続く女性たちのロールモデルとなるでしょう。そのためには、ここで論じたようなクオータ制をとるなどの推進策が必要です。そのような対策をひとつずつ推し進めていくことが重要なのです。
こうした目の前の問題をひとつずつ解決することが重要であることはもちろんですが、同時に、変えるべき大きな方向性についてもつかんでおくべきだと思われます。
つまり、究極的に私たちはどのような社会を望むのかという視点をはっきり持つことが必要です。それを考えるためには、フェミニズムの追求したことは、あくまでも、近代社会の原則である、すべての人に自由と平等が認められることであったという点を確認しておきたいと思います。
人間の自由に関する古典的な著作である『自由論』で、J・S・ミルは、「人間は自由を持ち、自分で『選択する』という行為によってのみ、さまざまな能力を行使できるのだ」と述べています。
そして著名なミル研究者であるアラン・ライアンは、それについて、「ミルの思想は、人間は変化できるものであり、未来は開かれている。その中で人間は自覚的に人生を選びとっていく存在なのだという意味であり、ミルは、人々が、自分で選択決定できる『自律的個人(autonomous individual)』になること、そのための不可欠の要素が自由であることを論じたのだ」と解説しています。
人々に、生まれつきの性により役割を強いる「性別分業」は、選択肢を狭め、自由を奪っているという意味で問題なのです。それは女性だけでなく、男性にも当てはまることでしょう。女性に自由が保障されても、それが他者を抑圧する事態を引き起こすことがあってはなりません。どのような人間も生きやすい社会が究極の目標となるでしょう。
文/中村敏子













