「性」の違いに基づく「性別分業」

1925(大正14)年に制定された普通選挙法によって、女性が選挙権の獲得を否定され、政治の領域から締め出されました。

それまでの過程で、政府は女性を政治に関わる領域から排除する政策を一貫して推し進めました。1879(明治12)年の教育令によって、小学校以外は男女別学と定められたのを始めとして、1884(明治17)年には区町村会法が改正され、地域によっては一時期認められていた「女戸主」の選挙権が否定されました。

1889(明治22)年の衆議院議員選挙法も男子のみに認められ、その翌年には、集会及政社法によって、女性の政党加入や演説会への参加が禁止されました。1893(明治26)年には、旧弁護士法により弁護士になるのも男子に限定されました。

同時に政府は、女性に対する「良妻賢母」教育を推し進めました。1893年に文部省は「女子教育に関する件」という訓令を出し、女子は家庭での役割を前提として教育が行なわれるべきだとしました。

しかし、こうした政策の基本となる「教育勅語」のなかでも、男女関係の道徳に関しては「夫婦相和し」と書かれていましたし、女性が「良妻賢母」になるということは家庭における重要な役割を担うことですから、ここでも男女の関係は家父長制的ではなく、それぞれの職分を担うという考えが基本にあったと思われます。

重要なのは、国家が男性を納税や選挙という重要な義務・権利に関わらせることで、国家行政の一端を担うようにさせ、男性を重視する政策をとったことです。

写真はイメージです 写真/Shutterstock
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そのことにより、「職分」の違いに基づく「役割分業」だった夫婦の関係が、「性」の違いに基づく「性別分業」へと変わっていくことになりました。こうしてできあがった性別分業の構造は、政治の領域における女性のあり方にも影響を及ぼしました。

第2次世界大戦前には国民が政治に参加する権利は男性だけに限られていたのですが、終戦からわずか4ヶ月後の1945(昭和20)年12月には女性にもその権利が与えられました。

この変革は、男女同権をうたった日本国憲法の制定(1946年11月公布)に先立って行なわれたものです。1946(昭和21)年に行なわれた総選挙においては、39名の女性が当選しました。これは、衆議院議員464名の8.4%にあたります。市川房枝などを中心に長年参政権を要求してきた女性たちがついにそれを手にした喜びと興奮は、当時の新聞などから明らかに読み取ることができます。