極右エコロジーの反近代思想
極右エコロジーの根底にある大きなテーマが、「反近代」である。極右は気候危機を、近代文明が土地や共同体、精神性を含む自然秩序を壊してきた結果として語る。つまり、極右エコロジーは、なぜ人間が自然を支配し、管理し、利用する対象として見るようになったのか、という近代的な存在論そのものを批判するのだ。そのため、合理主義、技術信仰、進歩主義、自由主義といったあらゆる近代的な価値観が、自然破壊の原因として語られるようになる。
ただし、新右翼が最初から近代に批判的だったわけではない。1970年代には、むしろ技術やヨーロッパ文明の力をたたえる傾向が強かった。しかし1980年代から1990年代にかけて、新右翼はテクノロジー批判や反啓蒙思想、農村共同体を重んじる思想などを取り込みながら、反近代的なエコロジー思想を組み立てていった。極右はエコロジーを、リベラリズムや啓蒙思想に近いものとしてではなく、ロマン主義的な土着の共同体を賛美する思想として取り込む。彼らにとって「自然を守る」ことは、未来へ進むことではなく、近代によって失われた土地や共同体、精神性を取り戻すことなのである。
新右翼のエコロジー思想は、キリスト教的一神教や近代合理主義こそが、自然を支配し、そこから「神聖さ」を奪った原因であると考えるため、これらに対して批判的だ。そして、多神教的・自然崇拝的なネオペイガニズム(*1)や、ヨーロッパ的精神性、さらには北米ディープエコロジー思想なども取り込みながら、自然と人間の神秘的な結びつきを取り戻そうとするのである。
*1 ネオペイガニズムとは、キリスト教以前のヨーロッパに存在した多神教的・土着的な宗教伝統を現代に復興・再構成しようとする宗教運動の総称である。自然崇拝や汎神論、反一神教的志向を特徴とするが、その政治的位置付けは一様ではなく、新右翼や極右と結びつく場合もあれば、エコロジーやフェミニズム、反権威主義的な対抗文化と結びつく場合もある。
反資本主義の極右?
極右エコロジーの近代批判は、時に資本主義批判にも接続される。極右は、左派のように階級支配や格差を中心に批判するのではなく、資本主義が世界を均質化し、人々を根なし草にしてしまうことを批判する。極右エコロジーにとって資本主義は、土地から人々を引きはがし、共同体を解体し、伝統や文化的差異を壊すものとして問題なのである。
そのため、極右エコロジーの反資本主義は、「根づいた共同体」への回帰をめざす。この発想には、すでにいくつかの前例がある。たとえば、ナチ党の指導者で、反資本主義的思想を持っていたグレゴール・シュトラッサーは、産業社会を解体して都市人口を農村へ移し、労働者、知識人、兵士を農民的な存在へと変える社会構想をもっていた。
また、フランス緑の党の創立に関わった哲学者エドワード・ゴールドスミスも、資本主義批判や自主管理思想を、土地への愛や失われた純粋性への郷愁と結びつけたことで、その思想は極右からも参照されるようになった。そこでは、巨大都市や工業的農業、アメリカ的消費主義などが批判される一方で、地域経済、伝統的農村共同体、倹約的で半自給的な生活が称揚される。
ここで注目すべきなのは、極右エコロジーは資本主義を批判する際に、左派エコロジーとよく似た語彙を用いるようになるということである。地域主義、ローカリズム、反消費社会、反グローバリズム、脱成長といった言葉は、左派エコロジーにも極右エコロジーにも共通してあらわれる。
このように、両者が近代批判や資本主義批判を共有することで、左派エコロジーと極右エコロジーのあいだに、ある種の思想的な「収斂」が生じることがある。そして、この重なりは、エコロジーの側から極右へと合流する回路を開く。すなわち、「極右のエコロジー化」とは反対の方向から、「エコロジーの極右化」という問題が生じるのである。
文/森野咲













