極右エコロジーの三つの柱:民族・土地・自然

前述のように、フランス極右において、エコロジーを本格的に理論化したのは、国民戦線や国民連合ではなく、新右翼、とくにアラン・ド・ブノワである。その最大の特徴は、エコロジーを、リベラルな環境保護や普遍主義的な自然保護として考えるのではなく、文化的・民族的・地域的多様性の保存までを含むものとして捉える点にある。

つまり、地域言語、生活様式、文化的固有性、社会的つながりの喪失をも「自然環境の破壊」と捉えるのである。これは、極右のレイシズムの「リベラル転換」において重要な役割を果たしている「民族多元主義」 を、エコロジーに応用したものと考えることができる。

では、この「エコ差異主義」とも言える極右エコロジー思想は、具体的にどのようなものなのか。それは、民族・土地・自然という三つの柱を軸にすると見えてくる。以下では、この三つの柱を順に見ていこう。

民族

極右エコロジーは、文化的・民族的な差異を、生態系の差異のように扱う点に特徴がある。それぞれの文化や民族は固有の土地に根ざしており、それらが混ざり合えば壊れる、と考えるのである。こうした発想の根底には、新右翼の民族多元主義がある。この民族多元主義がエコロジーと結びつくと、文化は生物多様性の一部のように語られるようになる。

つまり、生物多様性を守るように文化的多様性も守らなければならず、各文化や各民族はそれぞれ固有の土地に根ざしているのだから、移民、混血、同化によってそれらが混ざりあうことはその固有性を壊すことになる、という論理が成立するのだ。ここでいう「多様性」は、多文化共生のことではない。それは、「それぞれの民族や文化を、それぞれの土地に分けて保存する」という分離の思想である。

こうした「エコ差異主義」は、近年の国民連合の言説にもあらわれている。2023年に、国民連合党首のジョルダン・バルデラは「国境は環境にとって最良の味方である」と述べた。ここでは、国境が単に治安や移民管理のためのものではなく、環境を守るためのものとして語られている。つまり、移民を止め、さらには送還・再移住させることこそが、環境保護の核心であると考えられているのだ。

こうした「エコ国境主義」の論理のなかでは、非ヨーロッパ系移民は、たとえ明示的にそう呼ばれない場合でも、「侵略的外来種」のように想像される。こうして移民排斥は、アイデンティティの防衛であると同時に、生態学的な防衛であるかのように正当化されるのである。

土地

極右エコロジーにおいて、土地は単なる自然環境ではない。それは同時に、民族、祖先、文化といった共同体秩序やアイデンティティの根拠として位置づけられる。ここで重要になるのが、「根づき」という概念だ。

「根づき」とは、人間集団と土地のあいだに、切り離すことのできない本質的な結びつきがあると考える発想である。左派的、あるいはリベラル的な土地思想が「この土地で、どのように共に生きていくのか」を問うのに対して、極右的な土地思想は「誰がこの土地に本来属するのか」を問う。つまり、土地は共生の場というよりも、帰属を判定する場になる。土地に「根づいていない」と見なされる人々は、外部から来た存在として排除されるのだ。

したがって、極右的ローカリズムは、たんなる地域自治の思想ではない。それは、地域をアイデンティティ防衛の単位にする「閉鎖のローカリズム」として機能する。本来、バイオリージョナリズム(生態地域主義)とは、地域の自然生態系や生活圏を重視する思想であった。

しかし、それが新右翼に取り込まれると、地域の生態系は、文化共同体や民族的帰属と結びつけられるようになる。これと同じことは、コモンという概念にも言えるだろう。コモンとは本来、左派的な文脈において、土地や水、エネルギーといった開かれた共有財を指すが、新右翼はそれを「民族共同体に属するもの」といった意味へと転用するのである。

自然

極右にとって自然とは、単なる生態系や自然環境ではない。それは、何が「自然」で、何が「反自然」なのかを判断するための道徳的・政治的な基準でもある。極右はこの「自然な秩序」という言葉によって、家父長制や男性中心主義、人種・階層・性別にもとづくヒエラルキーを正当化してきた。

ここで重要になるのが、「限界」という語である。エコロジーにおける「限界」とは、人間活動が越えてはならないプラネタリー・バウンダリー、すなわち地球の居住可能性を維持するための惑星的限界を指す。

しかし、科学的に限界が存在するという事実だけで、そこから導かれる政治の方向が決まるわけではない。左派のエコロジー政治は、地球の限界が存在するという事実から、地球規模での分かち合いや協力、気候正義の必要性を導き出す。しかし極右はこの「限界」を、フェミニズム、LGBTQ+の権利運動、反差別運動などが越えてはならない「社会的・道徳的な境界」へと読み替えてきた。

つまり、エコロジー的な意味で守られるべきものが、地球環境そのものから、「自然な秩序」の名の下で語られる伝統的な家族、性別役割、民族的秩序に置き換えられるのである。 このように、極右がいう「自然」はきわめて選択的なものである。たとえば国民連合は、「自然の景観を守る」ことを理由に風力発電や太陽光発電に反対するが、原子力発電所のような別の環境負荷については問題にしない。つまり、彼らの「自然保護」は、科学的な気候変動対策と必ずしも一致しないのである。