サッカーは誰のものなのか
イランとサッカーをめぐる物語を考えるうえで、思い出される作品がある。ジャファル・パナヒ監督によるイラン映画『オフサイドガールズ』だ。
同作は、2006年ドイツW杯予選を題材にした映画で、舞台はテヘランのアザディ・スタジアム。イラン代表の試合をどうしても観戦したい少女たちが、男装してスタジアムに入ろうとする姿を描いている。
当時のイランでは、女性が男性のサッカー試合をスタジアムで観戦することが制限されていた。少女たちは競技場のすぐそばまでたどり着きながら、警備に見つかり、ピッチを見られない場所に留め置かれる。
彼女たちは、ただ自分の国の代表を応援したいだけだった。それなのに、制度や慣習によってスタジアムの外側へ追いやられてしまう。作品が投げかけたのは、「サッカーは誰のものなのか」という問いだった。
20年後の北中米W杯でイラン代表が置かれた状況は、もちろん映画の少女たちと同じではない。女性の観戦制限と、代表チームへの入国・移動制限を単純に重ね合わせるべきではない。
それでも、そこには共通する構図がある。サッカーを愛する人間が、サッカーそのものではない理由によって、サッカーを愛する人が、競技そのものではない事情によって制約を受けるという構図だ。
W杯は国家を背負う大会である。国旗が掲げられ、国歌が流れ、選手たちは代表として戦う。だからこそ、ときに政治や歴史の文脈から自由ではいられない。
だが同時に、サッカーは国家だけのものではない。スタジアムに入りたかった少女たちのものであり、移動を制限されながらもピッチに立った選手たちのものであり、勝敗を超えて相手をたたえる人々のものでもある。
勝利は届かないことがある。判定に泣くこともある。政治が選手たちの足元にまで影を落とすこともある。それでも、何を残して去るのかは自分たちで選べる。
イラン代表がロッカールームに残したメッセージは、単なる美談ではない。敗退の瞬間にこそ、サッカーが国境や制度、戦争の論理を超えて、人間の尊厳を語りうることを示した、小さくも強い証しだった。
文/集英社オンライン編集部













