「先生、これあとで呼んでくださいね」

次の診察日、別人が現れたのかと思った。

ブローされた髪をなびかせ、化粧ノリも良く、目元は明るく印象的。短めのスカートから美脚がのぞき、診察室にふわりと広がった甘い匂いに頭がクラクラする。

そういえば首元のネックレスがない。

「すっかり元気になりました。夜も先生の薬のおかげでよく眠れてます」

表情も晴れ晴れしている。たった2週間でここまで変わるものか。

「もう不倫はやめました。あのあと、『もう別れようと思うから最後に話したい』って呼び出したんです。そしたら『妻とは別れられない。申し訳ない』って謝られました。話を聞いたら、異動はこの件とは関係なかったみたいです」

不倫で人事異動させるヤバイ会社じゃなくてよかった、と胸を撫で下ろす。

写真はイメージです(写真/PhotoAC)
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「なんか吹っ切れて、なんでこんなおじさんを相手にしてたんだろう、って思えてきて、『なかったことにしましょう』って自分から言いました。そしたらなんて言ったと思います?」

自分だったら別れの直前で手放すのが惜しくなるかも……。

「真剣だったことは信じてほしい、なんて言ってきて、『最後の思い出にホテル行こう』だって。めっちゃムカついて、奥さんにバラしてやろうかと思いました。LINEは速攻ブロックです」

そう言って、心底可笑しそうに笑う。森本さんは自分の状況をしっかり客観視できている。これならもう大丈夫そうだ。

「でも体調が良くなったのは、先生がじっくり話を聞いてくれたおかげです。心療内科には前に何度か行ったことがあったけど、こんなにちゃんと話を聞いてくれたのは先生が初めてでした」

「いえいえ、たいへんでしたね」

不調の原因が消え去った森本さんには睡眠薬も不要だ。診察は5分で終了。通院の必要もなく、終診にすることとした。

「良くなったのは本当に先生のおかげです。ありがとうございました」

そう言って立ち上がった彼女が二つ折りのメモを診察室の机に置く。

写真はイメージです(写真/PhotoAC)
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「先生、これあとで呼んでくださいね」

心臓がキュッとなったが、待たせているほかの患者がいるため、とりあえずメモを引き出しにしまって診療を続けた。

最後の患者の診察が終わり、クリニックが静まり返った中で、おもむろに森本さんからのメモを取り出す。

〔優しい先生のおかげで立ち直れそうです。お礼をさせてほしいので、お時間あるとき連絡ください〕

手紙の最後にはLINEIDと携帯番号が記載されてある。

私の胸は一気に高鳴り、すでに反応し始めた下半身をスタッフに悟られないよう白衣でそっと隠しながらLINE登録をした――なんてことは、まるでない。

“陰キャの非モテ”としては、女性からのアプローチは願ってもないことだ。

実際、精神科や心療内科のクリニックには若い女性患者が多く、非モテの私みたいなタイプでさえ森本さんのようなケースはたまにある。しかし、患者となれば話は別だ。

まず、一度、患者として対応した女性を恋愛対象として見ることができない。通院中ならなおのこと、特別な感情を抱いてしまったら冷静な判断を下せる自信がない。

写真はイメージです(写真/PhotoAC)
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次に、患者が向ける好意が本当に恋愛感情なのかという疑いがある。

精神科には「転移」という概念がある。患者が過去に自分の生活の中で重要な人に向けた感情と同じ思いを治療者に向けることをいう。

たとえば、両親に褒められずに育った自己肯定感の低い女性が、丁寧に話を聞き、些細なことを褒めてくれる精神科医に、過去の両親の姿を重ね合わせる。「もっと褒めてほしい」「この人の特別になりたい」という思いが高まって恋愛感情を抱くようになるような場合だ。

彼女のメモを、患者情報の記載がある書類とともにシュレッダーにかける。私のモテ期はわずか数秒で細切れの紙吹雪へと姿を変えた。

文/駒木 爽

『精神科医おどおど日記——閉鎖病棟24時、本日当直、あらゆる精神疾患寝ずに診ます (日記シリーズ)』(三五館シンシャ/フォレスト出版)
駒木 爽
『精神科医おどおど日記——閉鎖病棟24時、本日当直、あらゆる精神疾患寝ずに診ます (日記シリーズ)』(三五館シンシャ/フォレスト出版)
2026/5/21
1,540円(税込)
208ページ
ISBN: 978-4866809526
私は、関東地方Ⅹ県にある精神科救急病院で10年以上勤務している精神科医だ。
かつて外科医だったころ、精神科は死からもっとも遠い診療科だと考えていた。
いくら心を病んだとしても、それが直接心肺機能を止めることはないからだ。
しかし、それは思い違いだった。
20~30代の死因の1位は自殺だ。その大半が、自殺直前に精神科を受診すれば何かしらの診断が下る精神状態だとされる。つまり、精神科は若者の死をもっとも身近で経験する診療科なのだ。
実際に十数年に及ぶ精神科勤務の中で何名もの患者の自死に接してきた。
私の勤める精神科病院は、重症患者の入院施設を併設する。わかりやすくいえば閉鎖病棟だ。
朝から晩まで奇声をあげ続ける統合失調症の人、数十年にわたって入院し意思疎通が困難になった認知症の人、アルコール依存症、双極性障害、うつ病……ここにいるのは、いずれも重症の患者ばかりだ。
本書では、彼ら彼女らとのやりとりを中心に、精神科のきれいごとでは済まないリアルを描く。
医療現場の問題は正論だけで片付けられないし、精神疾患に無力感を突き付けられることも多い。
そこには最近流行っている精神科マンガでは語られることのない、生々しい現実がある。
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