懐石料理の原型をつくった人物

そんな秀吉が熱中したのが「茶の湯」だ。

茶の湯といえば、数人で集まって作法に従って静かにお茶を喫するというイメージが強い。だが、当時の茶会では食事も提供されたのだ。「茶懐石」「懐石」と呼ばれる、いわゆる「懐石料理」だ。

秀吉が熱中した懐石料理(写真/shutterstock)
秀吉が熱中した懐石料理(写真/shutterstock)
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変わったネーミングだが、もともと禅寺での「温石」に由来するという説がある。

温石というのは、寒さや空腹をしのぐため、僧侶たちが温めた石を布や綿でくるんで懐中に入れるもの。つまり、石を懐に入れたので「懐石」。温石で腹を温めるように、茶を飲む前に質素な食べ物で腹を満たすというわけだ。

茶会の主催者(主人)は、茶を喫する前に客を軽食でもてなした。本膳料理(武家の正式な料理)のように二の膳、三の膳はあまり出ないし、一の膳の内容も「一汁三菜」程度だった。

一汁三菜とは、一椀の汁物と三品のおかず。おかずは、なます(細く、または薄く切った魚肉などを合わせ酢に浸したもの)と煮物と焼き物だ。この懐石料理の原型を考案したのは、茶の湯の大成者・千利休である。

利休が秀吉を招いた茶会での懐石料理の記録も残っている。

たとえば天正18年(1590)11月2日の茶会では「一の膳に串鮑と鮭焼物に納豆汁・飯・香の物をのせて出し、そのあと二の膳に鯉のさしみと中骨のついた汁が出された二汁三菜の料理」(筒井紘一著『茶の湯事始』講談社学術文庫)を出している。さすがに天下人なので、二の膳まで提供しているが、比較的内容は質素だ。

天正15年(1587)10月1日、秀吉は京都の北野天満宮で茶会を開いた。

茶会には、地位も身分も関係なく、当日は全国から千人近くの人びとが参加したという。そんなことから「北野大茶湯」と呼ばれるが、この大茶会をプロデュースしたのはもちろん利休であった。