ロマンチックな魅力、
〝天丼〟のおかしさ
いとう その軽い感じが、ぼくは断然好きなんです。もちろんその前の大作然としたものもすごいとは思いますけど、『フリア~』は抜群に面白い&技巧的で、先ほどリョサのラブレターがロマンチックだったといわれましたけど、『フリア~』もめちゃめちゃロマンチックじゃないですか。いつもキスばっかりしているし(笑)。
今度の『沈黙をあなたに』だって、主人公トーニョに片思いの女性が常にいたりというロマンチックな側面があって、そこが好きなところというか。トルコのオルハン・パムクのロマンチスト的なところともちょっとつながっている。
柳原 バルガス゠リョサというと、政治を扱った大作というイメージがありますが、一方でそういうロマンチックな恋愛やエロティシズムも書いている。
いとう ぼくは以前、くりぃむしちゅーの上田(晋也)くんから、「近頃面白い小説ありませんか」って訊かれたとき、ちょうど読み終えたところだったから、『フリアとシナリオライター』は面白いから読んだほうがいいよといったんです。しばらくしてから「あれは面白いんですか?」って(笑)。
あ、そうか、主人公のシナリオライターに政治的な意図があるのか、といったような感じで読んじゃうと、エロティシズムとかユーモアの部分が割と伏せられていくというか、それがごまかしのように見えてしまい、また違ったものにも読めてくる。そこはすごく難しいんだなと思った。
柳原 あるとき、中国文学の藤井省三さんがちょうど教授会で目の前に座っていたんですけども、『フリア~』を読んでいて、「何でこの人(シナリオライターのペドロ・カマーチョ)はこんなにアルゼンチン人を嫌うんだ」と。ぼくは「それはアルゼンチン人だからでしょう」というふうに答えたんですけど、ペドロ・カマーチョが何かにつけてアルゼンチン人を悪しざまにいうところなんかも本当に面白い。
いとう 面白い。我々の世界でいうところの〝天丼〟(同じボケやギャグを、二度、三度と繰り返すこと)ですね。『沈黙をあなたに』では、その役割はネズミでしょう。やたらとネズミが出てきて、その度に主人公が痒【かゆ】みに襲われる。一応なんで出てくるのかの理由は書いているけど、それよりネズミが何回も出てくるというところのおかしさを狙っているなという感じで、実にいいタイミングでネズミが出てくる。
柳原 最初に読んだ後は、冒頭の数行目にネズミのことが書かれていることを忘れていたんですけど、訳し始めたら、こんな初めから出ているじゃないかと気づいた。
いとう ロマンチックだったり、ユーモラスだったり、皮肉だったり、『フリアとシナリオライター』と『沈黙をあなたに』は、姉妹的な作品になっているように思いますが、意図的にそうしているのでしょうかね。
柳原 『フリア~』に出ている音楽が『沈黙をあなたに』でも再生されたり、ネズミの駆除会社の人とか出てきたりと、つながりは結構ありますね。
実はぼく自身、この一年ぐらい刺激性の皮膚炎になっていて、最近は大分よくなったのですけど、発疹とかいろんなものが出て、体が痒くて仕方がない。搔いては痛くなるということに悩まされながら、トーニョがネズミに悩まされるこの話を、分かる、分かる、搔きたくなる気持ち分かる、と思いながら訳していったんですよ。
いとう そうか、柳原さんもネズミにやられていたんだ(笑)。
真面目一辺倒なリョサが
たどり着いた意外なラスト
柳原 『沈黙をあなたに』の原著は二〇二三年ですが、その前に書いた『激動の時代』(二〇一九)は、グアテマラへのアメリカ合衆国の軍事介入を扱っていて、中身はそんなに長くはないんですけれども、路線としては大作路線に近いものです。
いとう 一方にそうした大作路線がちゃんと置かれていないと、こっちのユーモア、ロマンチシズムが本当につまらないものになってしまう。ものすごい抑圧があったり、許されない暴力みたいなものがあるというような世界の中で、ユーモアを使ってなんとか生きていこうぜっていう感じが、またたまらないわけですよね。
柳原 結局、ユーモア、ロマンチシズムもののほうが最後になったわけですね。
ただ、バルガス゠リョサは人格的には真面目一辺倒な人って印象があるんですね。
いとう あ、そうなんですか。
柳原 もちろん詳しくは知らないですけど、この人は真面目過ぎて、ぼくはきっと友達にはなれない感じがして(笑)。
いとう えー、そうなんだ。でも、『フリアとシナリオライター』以前と以後という意味でいうと、以後は相当おふざけも入っているじゃないですか。『フリア~』の場合、後半、シナリオライターが本当にでたらめで、ナンセンスコメディとして世界一じゃないかと思うほどです。この遺作の場合は、それは少し抑えめですが、きちっとその要素が入れ込まれている。
そういうコメディ的要素を入れながらも、『沈黙をあなたに』の中では、しきりに融和だ、多様性だといっている。これほど多くの国がどんどん多様性を失っていっている中で、予言みたいに、融和なんだ、多様性なんだって激しくいうのは、リョサらしい未来予測が含まれている作品なんじゃないかとも読めますよね。
柳原 そういうふうに読んでくださるとありがたいです。ありがたいって、ぼくは作者じゃないけど(笑)。
ここでは音楽のことを扱っていますけど、ぼく自身、ペルーのクリオーリョ音楽について詳しくは知らないのですが、実在のミュージシャンがストーリーに関わってくる人物として出てくるので、この人はどんな歌を歌っているんだろうと、YouTubeなどでいくつか実際の音源を聴いたりもしました。
いとう そういう意味では、彼流の音楽史みたいなものを残そうという気持ちもあったんでしょうかね。
柳原 多分、ここで書かれているクリオーリョに関する考察は、音楽の専門家からすれば、これは違う、あれは違うというのはきっとあるんだろうとは思います。でも、そこには彼なりの解釈というより、登場人物なりのいろいろな解釈が入っているような気がします。
いとう 現実とフィクションとが入り乱れているという意味で、『フリアとシナリオライター』も、どこまでが本当のことなのかって思いながら読むわけですが、そこが楽しいわけですよね。
この『沈黙をあなたに』でびっくりしたのは、「えっ、最後、こう終わるんだ」って、何回も読みましたね。
柳原 終わりは衝撃というか、意外というか、そういうところがありましたね。
いとう そう、なんていったらいいのかな。技巧ともいえない、でも、うまい人じゃなきゃ成立しないだろうなという。どの一行が決め手なのか、ぼくは研究者じゃないから分からないけど、でも、そう考えたくなるような終わり方ですね。
リョサ自身、これで去っていくつもりでそれをエンディングにしているわけだから、そこはしっかり考えていたと思う。大ざっぱにいってしまえば、軽く終わるということの微妙なタッチが、「ああ、おしゃれだな」という感じですね。
柳原 ぼくは逆に生真面目に過ぎるのか、最後がこんなに軽くていいのかと(笑)。でも、楽しめるものには違いない。
いとう というか、議論があってしかるべきだし、その議論が人のためになると思います。
柳原 バルガス゠リョサのファンではないペルー研究者たちからすると、ここで引き合いに出されている何冊かのペルーのナショナリズムに関する本やそれに関する議論というのは、賛成するにしろ、反対するにしろ、この読み方をめぐって、きっといろいろいいたくなると思う。まだそういった専門家たちからの反応は聞いていないので、なんともいえませんが。
いとう でも、リョサ自身もそれは分かっていて書いているはずだから、ちょっとカッカさせてみようかと思っていたところもあるかもしれない。
それに、最終的にユーモアへ行ったということに、だんだん緩くなってきたという言い方もする人たちもいるとは思う。でも、最後にユーモアの力が競り勝つという小説を書いてこの世から去ったというふうにぼくは見たいですね。マルケスは学生にも割と読まれているけど、リョサってそんなに読まれていない。もったいないと思うんですよね。リョサの読みやすさということを、ここで是非強調しておきたいですね。
「リマこそが俺の地だ」
柳原 一つだけ残念だと思うのは、ぼくはバルガス゠リョサは『密林の語り部』(一九八七)のようなアマゾン地帯、密林を描くと面白い作家だと思っているので、最後に密林ものを書いてほしかったなと。
いとう 結局、都会派として終わったんですね。
柳原 やっぱりリマっ子ですよね。
いとう そうか。自分が愛しているところを描いて終わる。
柳原 晩年はずっとスペインに住んでいたんですけど、最後はリマに戻って死にましたからね。
いとう あ、そうなんですね。
柳原 やはり、「リマこそが俺の地だ」
みたいのがあったのかもしれない。
いとう うんうん。それはそうなんでしょうね、きっと。そういうロマンチックさもあるということですね、この人には。
柳原 『沈黙をあなたに』を出す頃にはしょっちゅう病気で入院していたので、これが最後だということを覚悟はしていたのでしょう。当然作家ですから、ほかのアイデアとかもたくさんあったのだろうけれども、仕上げられそうなのはこれだ、もしくは、最後に仕上げるならこれだ、という思いがあったのではないかと思います。
いとう 最後、ロマンチックで都会的な作家だと思われてもいいという気持ちが、少なくともあったのだと思いますね。
柳原 残された資料などは全部プリンストン大学に寄贈されているので、これからはアーカイブでの研究が進み、新たな作品が発見されるかもしれないですね。
いとう それは楽しみですね。















