「休む」という選択肢はなかった
──1990年に新日本プロレスに入門し、93年には当時の有望な若手を集めたリーグ戦「ヤングライオン杯」で優勝を飾ります。当時の若手同士の雰囲気というのはどんな感じでしたか。
天山広吉(以下同) 当時、私はまだ現在の「天山広吉」ではなく「山本広吉」という本名で出ていました。私は90年に新日本プロレスに入りますが、その翌年、小島聡選手が入ってきます。当時から肉体が屈強で、バランスのいい、強い選手だと思っていました。
小島選手に限らず、若手はみんな仲が良かったと思いますよ。ただ、試合となれば別です。馴れ合いは絶対にしないし、「あいつらより強くなってやる」という気概で練習をしていました。みんなそうやって切磋琢磨していたと思いますね。
──ヤングライオン杯優勝のあと、海外に行かれますよね。
はい、オーストリアに武者修行へ行きました。現地では「ヒロ・ヤマモト」のリングネームでヒールをやって、CWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得することもできました。
──その後、凱旋帰国した1995年、現在の天山広吉にリングネームを改めます。当時最年少でIWGPヘビー級王座をかけて橋本真也選手に挑戦するなど、強烈なインパクトを残しました。90年から2000年代のプロレスシーンを沸かせてきた一方で、身体は悲鳴を上げていたのではないかと思うのですが。
当時は、練習方法も現在ほど科学的な知見が採用されていませんでしたから、思い返してみても「よくあんな練習に耐えられたな」と思うことがあります。現在では当たり前になっている水分補給も厳禁で、「練習中に水を飲むなんて何事だ」という雰囲気がありました。
またプロレスラーとして、私自身が「どんな技でも受け止めてやろう」という闘志に燃えていましたから、少々の無理は、無理と認識していなかったんです。ちょっとしたケガや風邪などで「休養します」なんてことは言えませんでしたよね。
──疲弊していたとしても、プロレスラーは「試合に出てなんぼ」という空気感があった。
そうですね。実際、その考え方が完全に間違っているとも思わないんです。プロレスラーというのは、試合に出て、足を運んでくれているお客さんたちに対して勇気を与える立場ですから。ただ、特に若手時代に自らの身体をケアすることができていたかと言うと、多くのプロレスラーができていなかったのではないかと思います。
──痛められた部位でいうと……。
首、膝、腰などだいたいやっていますね(笑)。たとえば、腰椎脊柱管狭窄症は、背骨の中にある神経の通り道が狭くなり、神経が圧迫される病気です。おそらく、長年にわたるリング上での衝撃が蓄積したのではないかと考えています。
また、首については、頚椎後縦靭帯骨化症という難病に悩まされた時期もありました。簡単に言うと、首の骨の後ろにある靭帯が骨化してしまい、神経を圧迫する難病です。あとは右膝の変形性膝関節症もありますしね。本当にいろいろです。













