なぜ多数決は民主主義の本質ではないのか
民主主義のもう一つの本質が「一般意志」の原理です。
「一般意志」とは何か?
簡単に言えば、「みんなの意志を持ち寄って見出し合った、みんなの利益になる合意」のことです。
ここで重要なのは、民主主義社会における法や権力の「正当性」の根拠は、この一般意志にしかないということです。
一般意志は、法や権力の「正当性」の原理である。これが、一般意志を理解する上での最も重要なポイントです。
一般意志の対概念を「特殊意志」と言います。権力者や大金持ちなど、一部の人たちの意志のことです。
民主主義社会では、このような一部の人たちだけの意志がまかり通るようなことがあってはなりません。あくまでも「みんなの意志を持ち寄って見出し合った、みんなの利益になる合意」をこそ目指し続けなければならないのです。
そんなの無理でしょ、と思われたかもしれません。でも、この合意を目指すこと以外に、法や権力の「正当性」はありうるでしょうか。特殊意志による支配を望まないのであれば、私たちは、いかに一般意志を見出し続けることができるかを考えるほかありません。その意味で、民主主義は絶えざる合意形成のプロセスなのです。
したがって、民主主義社会において重要なことは、安易に多数決で意志決定を行うのではなく、たとえばA案とB案が対立したとしたら、議論を重ねて妥協案を見出したり、もっとよいC案やD案を考え合ったりしていくことにあります。そうやって、できるだけ「みんなの利益になる合意」を見出していくのです。
多数決は民主主義の本質ではありません。その本質的な理由は、まさにここにあります。
多数決は、どうしても少数者を排除してしまう意志決定の方法です。場合によっては「多数者の専制」にも陥ってしまいかねません。その意味で、多数決は断じて民主主義の本質ではありません。民主主義社会における、あくまでも意志決定の一つの手段にすぎないのです。
もちろん、選挙にしても国会での議決にしても、最後は多数決で決めなければならない場合は多々あります。でもそれは、「これこれこの場合は多数決で決定する」ということが事前に合意されているということなのです。少なくとも、そのような想定のもとに、選挙や議会では多数決が使われているのです。
改めて、民主主義の本質は、「自由の相互承認」に基づき「一般意志」を見出し合っていくことにこそあります。まさに「対話を通した合意形成」こそが、民主主義の根幹にあるのです。
これまで繰り返し、本質観取は相互承認と共通了解を目指す対話である、と述べてきました。これはまさに、「自由の相互承認」と「一般意志」を目指す対話であるということです。
本質観取とは、いわば民主主義の営みそのものなのです。その経験を積むことができたなら、私たちは、いまの民主主義社会をきっとさらに成熟させていくことができるに違いありません。















