事件から半年後、矢沢容疑者の父は…

事件当時、関東近郊にある実家には報道陣が押し寄せ、矢沢容疑者の父は取材にこう証言していた。

「大阪には親戚などもいませんし、家族で旅行などで行ったこともないし、たぶん本人も大阪はもちろん西成には行ったこともないと思います。

勇希はもともと思い詰める性格で、2024年元日の深夜には自殺未遂を起こしています。東村山署から連絡があり、勇希が住む部屋に駆けつけて『実家に戻ってくるか』と誘いましたが、『いい、大丈夫だ』と断られました。なので、その後も彼が2度と自殺など起こさないように私や妻も3ヶ月に1回くらいのペースで生存確認をしに行ってたんです。

最後に会ったのは去年の冬です。妻と2人で団地の前で待っていた時に会ったんですが、深く何か話せたわけではありませんでした。

勇希は小学校時代はとても明るく活発でサッカークラブにも入っていましたが、思春期の頃から心情をあまり語らなくなりました。高校2年になるとそのサッカーもやめて、妻が心療内科に付き添った時期がありました。もともと生まれつき免疫不全の疾患があり、点滴で治療しながら暮らしていました。その治療のおかげかサッカーもずっと続けてこれたんですが…」

矢沢容疑者の実家(写真/集英社オンライン)
矢沢容疑者の実家(写真/集英社オンライン)

高校入学を転機として、矢沢容疑者に変化があったのは間違いなさそうだ。父親はこう振り返っていた。

「高校は自ら選んだ学校でしたが、地元の中学から1人しか行かないような進学校だったこともあり、もしかしたらそこで孤立したのかもしれない。その当時、家では『サッカー部の顧問からいじられるのが嫌だ』とは話していました。

小中のサッカー仲間とは仲よくしていたけど、高校以降の交友関係はあまりわかりません。大学や就職してからの交友関係もわからないし、彼女の存在について聞いても答えが返ってきたことは一度もなかった。

あの団地に転居したのは大学を卒業し、放射線技師として就職の決まった5年前のことです。職場の病院に近いからということで、自分で見つけて契約を結んだ部屋でした」

矢沢容疑者が住んでいた公団住宅
矢沢容疑者が住んでいた公団住宅

いっぽうで父親は、矢沢容疑者が奨学金の返済を放置していたことも知っていた。

「3年ほど前に大学に入る時に借りた奨学金の返済が滞っているという手紙が実家に届くようになりました。奨学金自体は数十万円を借りていて、月々の支払いも1万円もいかない程度でした。

そうした督促状が何度か届き、私が『これで払ってしまうように』と数十万円渡しました。それで奨学金を払ったのかどうかもわかりませんし、他にも借金していた可能性もありますが、それはわかりません。

団地に転居してしばらくは部屋も綺麗に掃除をして身なりも整えていたのですが、2年ほど前からだんだんと無精髭を生やし、部屋も汚くなり痩せている様子がうかがえました。

妻は頻繁にLINEなどで連絡をしていたようでしたけど、それにも一言返事がある程度で『大丈夫だ』としか言わないような状態で、コミュニケーションは取れていませんでした」

矢沢容疑者が住んでいた団地内の安否確認訓練を告知する掲示物
矢沢容疑者が住んでいた団地内の安否確認訓練を告知する掲示物
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 事件直後は真摯に取材に答えていた父親も、事件から半年後の11月になるとインターフォンを押しても「すいません」と返したきり、応答することはなかった。

実家の近くに住む男性はこう語った。

「事件の時はすごい数のマスコミが矢沢さんのお宅を訪ねてきていましたね。辛いでしょうにお父様が表で対応されているのを見かけましたが、今ではこうして取材の方が来るということもなくなりましたね。

ご両親ともたまに見かけるし、挨拶なんかもしますよ。ただ、さすがにこちらから事件について聞いたりもできないので今どうなってるかは知りませんが……」

ゴールデンウィークの真っただ中に起きた事件。一日も早く全容が解明されることを願うばかりだ。

取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班