人間は多面的。白でも黒でもない部分をあえて見出したい

──2024年12月、54年間独裁政治を続けてきたアサド政権が突如として崩壊します。その8日後に、小松さんは夫と息子さんを連れてシリアに入国しました。市民の喜びと混乱を見るとともに、「サイドナヤ刑務所」にも向かいます。収容者の75%が生きて帰れなかったといわれる刑務所です。
 
夫の兄サーメルも囚われ命を落とした場所なので、その場に立って、本当に迫ってくるものがありました。

そして思ったのは、なぜ国際社会が止められなかったのかということです。サイドナヤ刑務所だけではなく、シリア各地の刑務所や収容所で、囚人に対して酷い拷問や処刑がおこなわれていたことを国際社会は知っていた。にもかかわらず止められなかった過去を検証しなければいけないと思っています。

──サイドナヤ刑務所を生き延びた人へのインタビューは、人間が極限状態でどう生き延びるかを知る貴重な証言です。

アウシュビッツの体験を描いたヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読んでいたので、希望を失わなかった人や意志の強い人、精神的によりどころのある人が生き残ったのだろうと思って、「どのように生の希望をもっていたのか」と質問したんです。

そうしたら想像を絶する答えが返ってきて……言葉を失いました。サイドナヤ刑務所の凄惨な実態が伝わってきましたし、もしかしたら、宗教や民族、文化によって、どのように人間が生き延びるかは違うのかもしれないとも感じました。

激動のシリアを生きた市井の人々の、等身大の姿を描いた『シリアの家族』
激動のシリアを生きた市井の人々の、等身大の姿を描いた『シリアの家族』
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──この本を読んでいると、シリアの市井の人から、体制側の人間までが近しく感じられます。それは、選考委員の森達也さんが評されているように、〈秘密警察も移民となったシリア人も政府軍兵士もイラン軍兵士も、すべて等身大の人間として描かれている〉からだと思いました。このように人間を見つめる視線や姿勢を、どのように培われましたか。

一つには写真家の視点かなと思います。一人の人間にも光と影があり、撮る角度や方向によって表情は変わります。人間が多面的であることを意識するようにしていて、白でも黒でもない部分をあえて見出したいという思いがあります。
 
もう一つは、シリアに出会ったことですね。独裁政権下や紛争下というのは本当に複雑で、シリアは長い間、本音を言えない社会だったんですが、そうした状況でも、人々が真実を垣間見せてくれる瞬間があるんですね。

たとえばアサド政権下のシリアに取材に行ったとき、国営銀行で換金しようとした私に、ものすごく悪いレートが提示されました。諦めて銀行を後にすると、銀行の列に並んでいた男性がわざわざ追いかけてきて、正しいレートを教えてくれたんです。

公には言えなくても、安全が保障されれば真実を教えてくれる。体制に迎合しなければ生き延びられない人々の苦しみと同時に、人間の良心を知ることができたエピソードでした。

──登山家として大きな記録を打ち立てた小松さんですが、ラドワンさんと結婚後の人生も激動です。お二人の今後も気になりますし……シリアとご自身の取材は続きますか?

結婚後の生活はヒマラヤ登山よりサバイバルです(笑)。ちょっと疲れてきましたが、やはり理解できないところがあるからこそ、彼らと生きるかけがえのなさを感じますし、わくわくするんでしょうね。

夫は故郷のパルミラに帰る予定なので、そのとき私と子どもたちはどうするか……そこでまた一波乱ありそうな予感がします。それを次に書けたら面白いなと思っています。

聞き手・構成=砂田明子 撮影=山口真由子 写真=Shutterstock

シリアの家族
小松 由佳
シリアの家族
2025/11/26
2,420円(税込)
328ページ
ISBN:978-4087817737

第23回開高健ノンフィクション賞受賞作

選考委員大絶賛!

書き手自身を取り巻く「人間」を、シリアの政治と歴史への深い理解とともに厚みをもって描ききった。 加藤陽子 (東京大学教授・歴史学者)

大家族の幸せな記憶、その一瞬の光芒が眼前に浮かんできそうだ。名作である。 姜尚中 (政治学者)

もはや言葉にすらできぬ過酷な日常を現実として生きた/生き続ける女性がいる。 藤沢 周 (作家)

世界が抱える矛盾を独自の視点で描ききった秀作。 堀川惠子 (ノンフィクション作家)

秘密警察も移民となったシリア人も政府軍兵士もイラン軍兵士も、すべて等身大の人間として描かれている。 森 達也 (映画監督・作家)
※五十音順/選評より

風土に根差して生きる人々を撮り続ける著者は、シリアの沙漠で総勢70名という大家族アブドゥルラティーフ一家と出会い、その十二男、ラドワンと恋に落ちる。
やがて「アラブの春」から始まるシリア内戦に巻き込まれ、ラドワンは徴兵され、六男サーメルは政治犯として逮捕される。一家は故郷パルミラを追われ、難民として散り散りになってしまう。
脱走兵としてヨルダンに逃れたラドワンと結婚し、「シリアの家族」の一員となった著者は、異郷に生きる難民たちの取材を始める。

難民となりトルコで暮らして5年。一家の長である義父・ガーセムが、故郷に帰る夢を叶えることなく永眠した。アブドゥルラティーフ家の故郷パルミラの今を見たい……。著者は11年ぶりにシリアに向かい、秘密警察の監視や親族による軟禁をくぐり抜け、かつて一家が暮らした家にたどり着く。
命がけの取材から帰還した著者を待ち受けていたのは、夫ラドワンの「第二夫人を娶りたい」という驚きの一言だった……。

2024年12月、生きて故郷の土を踏むことはないと思っていたラドワン、そして多くのシリア難民に転機が訪れる。半世紀以上にわたって独裁を続けてきたアサド政権が崩壊したのだ。
政権崩壊から8日後、著者はラドワンと長男と共にシリアに入る。逮捕されたサーメルの消息を求め、「人間虐殺の場」と呼ばれたサイドナヤ刑務所を訪れる。その現場で目にしたもの、そして数少ない生存者が語った言葉は衝撃的なものだった。
激動のシリアを生きた市井の人々の、等身大の姿を描くノンフィクション。

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