医療の進歩が連れてきた新たな問題
――『命の横どり』では、医療の進歩によって、いままでは起こりえなかった人間の感情の揺らぎが描かれます。前編でもお伺いした通り、作中では、臓器提供を認めたことで、脳死状態の息子を最終的に死に追いやってしまったのは自分ではないかと葛藤する母親が登場します。
久坂部(以下同) 進歩という言葉は肯定的に受け止められる場合がほとんどですが、その裏では不都合なこと、不条理なことが必ず生まれます。とくに医療現場にいると医療の進歩によって生まれた影の部分を痛感します。
たとえば、胃ろうの是非がそうです。私も当初は、肯定的に受け止めていましたが、患者やご遺族に接した結果、胃ろうには慎重になりました。
――胃ろうとはなんでしょうか?
胃ろうとは、老化などによって食べ物を飲み込めなくなった人に腹部からチューブを胃に差し込んで栄養剤や水分を注入する医療措置です。口から食事が摂りにくくなった高齢者が胃ろうをしなかった場合、食べ物が気管に残り、雑菌が繁殖して「誤嚥性肺炎」を起こし、命の危険にさらされることになります。
胃ろうにすれば、肺炎の危険性は減る反面、口から食べる喜びを犠牲にします。胃ろうという医療技術が広まったことで、肺炎を予防するのか、食の喜びをあきらめるのかの選択を人は迫られるようになったのです。
――医療技術の進歩が新たな悩みを生むことになったのですね。
さらに胃ろうにはもうひとつの問題があります。脳卒中などで植物状態になった患者や、衰弱した高齢者の方に胃ろうで栄養補給すると亡くならなくなります。
死ななければいいと思う人もいるでしょう。しかし具体的に想像してみてください。意識がない患者を褥瘡予防で1日に何度も身体の向きを変え、身体を拭き、便などの処理をしなければなりません。自宅なら一部屋必要になりますし、施設なら医療費などもかかります。そんな状態が何年続くか分からない。しかもほかの延命治療と同じで、一度はじめると中止は難しい。
もし患者の意識があっても、胃ろうにした場合は1日中寝たきりで、生かされ続けることになります。果たして、それが人間として幸せな生き方と言えるのか。そんな疑問を持つ医療従事者が増えてきました。
葛藤するご家族も少なくありません。医師から「胃ろうをしないと、ほどなく亡くなります」と言われたとしましょう。断った場合、自分が家族を見捨てたような自責の念に苛まれてしまうのです。
――『命の横どり』に登場する、臓器提供を認めたことを後悔する母親と重なりますね。彼女も息子の死を受け容れられず、自分の選択が間違いだったのではと考えています。
死が遠いものになっているせいだと思います。かつては人生50年と言われていました。治療できない病気が多かった時代では、死別の悲しみを味わう機会が多かった。それが、医療が進歩し、新しい薬の開発や、画期的な治療法の確立によって、人生100年時代と呼ばれるようになりました。
私が懸念している医療の進歩による弊害は、死が病院のなかに隠されるようになり、死が得体の知れない恐怖になってしまったこと。
――具体的にはどういうことでしょうか?
昔、家で人が亡くなっていた時代は、家族の死が身近にありました。高齢者から順に亡くなるとは限りません。不条理に命を落とす若い人もいました。そんな環境で、人々は死と接し、死への受け入れ方を学んでいったのです。
私も医者として人が命を落とす現場に幾度となく立ち合いました。若かった頃は、割り切れない思いを抱いた瞬間もありましたが、いまは死に慣れました。自分が死ぬことも怖くなくなりました。
でも医療従事者でなければ、普段、死に接することはありません。なので、現代人は死を受け入れることが難しくなったのではないかと考えています。そして、死別の悲しみが減った反面、家族の介護や、認知症の問題に頭を悩ませる人が増えてきました。













