全盛期のレッド・ツェッペリンが広島を訪れたワケ

全盛期のレッド・ツェッペリンには、こんな来日エピソードがある。

ジミー・ペイジは自身のアルバムをプロモーションするために、2015年7月来日した際、広島へと足を運んだ。

「1971年、広島を最初に訪れた時のことは、心に強く訴えかける体験だった。そして44年ぶりに広島に戻ることは、同じ様に心に響くものになると私は強く思っている」

ジミーが初めて広島を訪れたのは、レッド・ツェッペリンにとっての初来日公演が実現した1971年9月のこと。ツアーの行程は東京で2回、大阪で2回、そしてメンバーの希望によって選ばれた広島だった。

『プレゼンス』『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』『コーダ(最終楽章)』の発売に向けて、プロモーション来日を行っていたジミー・ペイジ。そのプロモーションの合間を縫って、戦後70年の節目を迎える広島市を訪問したという。写真は『Coda / コーダ(最終楽章)【リマスター/スタンダード・エディション】』(2015年7月31日発売、WARNER MUSIC JAPAN)のジャケット
『プレゼンス』『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』『コーダ(最終楽章)』の発売に向けて、プロモーション来日を行っていたジミー・ペイジ。そのプロモーションの合間を縫って、戦後70年の節目を迎える広島市を訪問したという。写真は『Coda / コーダ(最終楽章)【リマスター/スタンダード・エディション】』(2015年7月31日発売、WARNER MUSIC JAPAN)のジャケット

9月23日と24日に武道館でのコンサートを大成功させたメンバーたちは広島へと移動すると、27日の朝に原爆ドームと原爆資料館を訪れた。

同行していた音楽評論家の湯川れい子氏によれば、彼らは目を腫らしながら、こう語ったという。

「人間はここまで残酷なことをするのか。そこまで最低の生き物だとは認めたくない。こんな無惨なことをするのは愚かなことだ」

午後には広島市役所を訪問し、市長に被爆者援護資金としておよそ700万円寄贈の目録を手渡した。ツアーの道中を東京で買ったビデオカメラで撮影していた彼らは、その模様を編集してBGMもつけて公開している。

その日の夜、広島県立体育館には5000人の若者たちが集まった。

当時は東京や大阪以外で海外のミュージシャンによるコンサートが催されるのは珍しく、レッド・ツェッペリンほど人気のあるロック・バンドが、地方でコンサートをするのはほぼ初めてのことだった。

広島県立体育館は、1994年に広島県立総合体育館に名称をあらためて、建て替えられた(PhotoAC)
広島県立体育館は、1994年に広島県立総合体育館に名称をあらためて、建て替えられた(PhotoAC)

日本で特に人気の高かった『移民の歌』でコンサートの幕が開くと、観客はそれまでに聴いたことのないような轟音に圧倒された。会場の空気は一変し、そこからは怒涛のようなライブが展開する。

多くの若者たちにとってそれは初めてのロックンロール体験となり、レッド・ツェッペリンのプレイは予想を超える熱狂を巻き起こした。

そしてアンコールの『コミュニケーション・ブレイクダウン』では、興奮した観客がステージ側に押し寄せたために、観客の身を案じて、ヴォーカルのロバート・プラントが演奏を中断して「座るように」と呼びかける場面も見られた。

それにしてもレッド・ツェッペリンがなぜ来日公演の場に広島を選んだのか。

その理由は、ロバート・プラントが広島市長との会見で発した言葉から読み解くことができる。

「原爆投下は誰が悪いというより、我々人間の仲間が起こしたことです。同じ人間としてその事実にやはり申し訳なさを感じます。そして少しでも苦しんでいる人たちのために自分たちが力になれたらと考えました。音楽は人々に平和と楽しさを与えるものです。その音楽をやっている僕たちが、少しでも力になれるなら、実に光栄だと思います」

文/TAP the POP

参考文献/「来日ロック伝説1960's-2000’s」(シンコー・ミュージック)