宮本の後任、新井新会長の手腕は…?
宮本の知見と分析によると、日本の文化として根付いてきた大学野球や都市対抗の社会人などへ行っていた人材がプロの育成へと分散し、少子化とも相まってアマチュアのレベル低下が余儀なくされている。
そして労働組合的な観点から言えば、育成制度はプロという名のやりがい搾取に繋がるのではないか。支配下選手を正社員とするならば、派遣切りよろしく安価な育成選手については経営者側は取りやすく、切りやすい。
選手会会長として自ら名乗りを上げて、濃密な三年間を過ごした宮本であるが、この時期、プレーの面でもそのキャリアにおいて好成績を収めている。打率は2006年が3割4厘,2007年3割ジャスト,2008年3割8厘と3年続けてすべて3割を超えている。
本人はその理由をメンタルに求めた。
「球団は僕と選手として契約してくれているわけですから。ヤクルトがあって僕がある。選手会の仕事をすることで、迷惑をかけるわけにはいけないじゃないですか」
月に1度のNPBとの事務折衝、2か月に一度の清武との会食、そして裁判という非日常のミッションに追われながら、なぜプレーヤーとしての結果を残すことができたのか。
「バッティングも守備も技術的に特に何かを変えたということはなくて、僕の場合は切り替えが上手く出来たということだと思います」
2008年に会長を退任する際、次は誰に託すか。FAや肖像権、そして統一契約書における保留権に対する権利獲得に向けて、この流れをしっかりと繋いでくれる人物として早い段階から宮本には腹案があった。
広島カープの新井貴浩である。北京五輪のキャプテンであった宮本は予選、本選と一緒に代表選手として戦っていく中で新井の誠実な気性を認めるようになっていた。
「彼は頭もいいんですけど、何より『こいつは損得で動かないな』という性格の部分ですね。やっぱり、損する、得するで動く人というのは僕はちょっと信用できないので。
そして新井は正しいと思ったところには思い切って突っ込んでいける。そしてその正しいという定義をちゃんと持っている。彼は逃げない。僕が会長として心掛けていたのは、プロ野球界が良くなるためというよりは、日本の野球が良くなるように。
で、その中にプロ野球という組織があって、ここはやっぱりみんなに憧れてもらわないといけない場所ということ。まあ選手会の仕事は正直、誰もやりたがらない。新井だってやりたくなかったと思うんですけど……」
大阪まで直談判にやって来た宮本に対して新井はNOと言えず、引き受けた。そして実際に正しいと思ったところに突っ込んでいった。会長任期3年目に起きた東日本大震災の際にセ・リーグを相手取り、開幕の延期を認めさせたのである。













