しょっちゅうお金を巻き上げられてきた

――永松さんが初めてケニアを訪れたのはいつですか?

永松真紀(以下、同) 1989年ですね。大学時代にさだまさしさんの「風に立つライオン」という曲を聴き、「行ってみたい」と思ったのがきっかけでした。その中で歌われているアフリカの大自然に、すごく惹かれたんです。当時は何もわからないまま、自分でチケットを買って出かけたんです。

――最初の印象はどうでしたか?

若かったので、目に見えるものをそのまま受け止めていました。「アフリカの人々は明るく親切で、目がキラキラしている」と思っていました。でも、それは大きな間違いでした。後で気づいたのは、裏には必ず“下心”があるということ。あの頃は皆が貧しかった時代で、外国人は「金」にしか見えなかったんでしょうね。

――1996年にケニアへ移住した永松さん。もし、当時に戻れるとしたらまたケニアを選びますか?

選ばないと思います(笑)。当時はケニアの気候に惹かれて移住しましたが、ジャクソン(現在の夫でマサイ族の戦士)と出会う前に、別のケニア人男性と結婚・離婚を経験し、ケニア社会の表も裏も知り尽くしてしまいました。

私はマサイを深くリスペクトしていますが、ケニアそのものは好きではないのです。治安があまり良くなかったのですが、まだ若かったから、ナイロビ(ケニアの首都)の危険な香りすら魅力的に思えました。都会特有のスリルに惹かれていたんです。今となっては、わざわざ同じ苦労を繰り返したいとは思いません。

――前の旦那さんはどんな方でしたか?

当時、私は“マタトゥ”というケニア独自の乗り合いバスのオーナーをしていました。そしてそのマネージャーをしていたケニア人と結婚したんです。時間は守らない、嘘つき、女たらしという典型的なダメ人間したね(笑)。

今どきのド派手なマタトゥ(写真/永松さん提供)
今どきのド派手なマタトゥ(写真/永松さん提供)
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でも、環境のせいもあるだろうし、日本に行けば変わるかもしれないと期待して、結婚と同時に彼と一緒に帰国しました。けれど、日本でも彼は彼のまま。他人や家族に迷惑をかける恐れもあったので、すぐに離婚しました。

――どうして“マタトゥ”ビジネスを辞めてまで、当時の旦那さんと一緒に日本へ帰る決心をしたんですか?

当時のケニアの警察では賄賂が横行していて、現金商売のマタトゥは格好の餌食でした。ことあるごとに賄賂を要求されるのです。特に私のマタトゥはこだわりを詰め込んだ目立つ車体だったので、狙われやすかったんです。それに「日本人=金持ち」というイメージもまだ強く、しょっちゅうお金を巻き上げられていました。

そうした状況がすごく嫌になり、日本へ帰ることを選びました。

――嫌になったのに、どうしてまたケニアに戻ろうと思ったのですか?

離婚をしてから、「私がケニアを嫌になったのは前の夫のせいだったんじゃないか?」「この人抜きのケニアを見てみたい」と思うようになったんです。

それで仕事の機会があって再びケニアに戻ったのですが、しばらくしてマサイ族と出会いました。彼らは一般的なケニア人とはまったく違う文化や考え方を持っていて、「ケニア人の中にマサイを入れてほしくないくらい別物だな」と思うほどです(笑)。