仕上がりの良さから急遽、シングルのA面に抜擢

ウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』は、中年の詩人ハンバートによる12歳の少女ロリータへの愛を描いた問題作で、1958年にアメリカで出版されてベストセラーになった。

ナボコフ本人の脚本で、スタンリー・キューブリックが監督した映画『ロリータ』が1962年に世界中で公開されたこともあって、ロリータという単語は世界に広まり、日本では「ロリータ・コンプレックス」という和製英語が“ロリコン”として一般化している。

ロリータになれる少女とは、格別に美しいことに加えて、蠱惑的であることが必要になる。そのうえで、ときおり見え隠れする挑発性と、それにともなう危険な香りが漂っていなければならない。

ウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』(写真/Shutterstock)
ウラジミール・ナボコフの小説『ロリータ』(写真/Shutterstock)

ただし、売野が書いた歌詞の『ロリータ』はナボコフの小説からではなく、トーマス・マンの小説『ベニスに死す』に題材を得ていた。

創作活動に疲れた作家のアッシェンバッハは、足を向けたヴェネツィアのホテルで、長期滞在している上流階級のポーランド人一家の息子・タジオの美しさに魅せられていく。

ただただ美貌のタジオを見つめるだけという、不器用な愛情表現しかできないアッシェンバッハが、次第に命の輝きを失って死んでいく物語は、トーマス・マンの友人だった作曲家、グスタフ・マーラーがモデルだった。

イタリアのルキノ・ヴィスコンティ監督が1971年に映画化した『ベニスに死す』は、小説では作家となっていた主人公を作曲家に置き換えて描いた文芸作品である。

沢田研二をアッシェンバッハに設定した売野は、美少年のタジオを美少女に置き換えて、中年に差し掛かった男性が思い焦がれる歌詞を書いた。

しかし当時はまだ、そのアイデアを歌詞として完成させるだけの力量がなかったという。だから中途半端な作品にとどまり、採用されずに終わったのだった。

もし売野が歌詞を完成させていたら、『少女A』は生まれず、沢田研二が『ロリーータ』として歌っていたかもしれない……。写真は『Julie』(2005年3月2日発売、UNIVERSAL MUSIC)のジャケット
もし売野が歌詞を完成させていたら、『少女A』は生まれず、沢田研二が『ロリーータ』として歌っていたかもしれない……。写真は『Julie』(2005年3月2日発売、UNIVERSAL MUSIC)のジャケット
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そこで売野は中年男の視点だった歌詞を、逆に“美少女の目線”から書き直すことにした。そこからいくつもの紆余曲折を経て、『少女A』は芹澤廣明の作曲によって完成する。

タイトルからしてそれまでの歌謡曲にはない斬新な表現であるが、さらに萩田光雄の力強くも鮮やかなアレンジを得て、間違いなくヒットを予感させる作品に仕上がった。

ところが、中森明菜本人はこの楽曲を歌いたがらなかったという。だが「レコーディングで1回歌うだけでいいよ」と、マネージャーが説得して歌が吹き込まれた。

さらにはアルバムの中の1曲だったはずが、仕上がりの良さから急遽、シングルのA面に抜擢されるという展開になった。

デビュー曲から一転して、アップ・テンポでパワフルなセカンド・シングルとしてリリースされた『少女A』(1982年7月28日発売、ワーナー・パイオニア)
デビュー曲から一転して、アップ・テンポでパワフルなセカンド・シングルとしてリリースされた『少女A』(1982年7月28日発売、ワーナー・パイオニア)
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聴くものをドキドキさせる歌詞がセンセーショナルな内容だったことで、『少女A』は音楽シーンのみならず社会的な広がりもみせて、一般の週刊誌などにも論評が載るほどだった。

売野にとって最も印象的だったのは、評論家の言葉や解説ではなく、朝日新聞の「声」の欄に投書された女子高校生の言葉であった。

私は不良でもないし、学校ではクラス委員もしていて他人からは優等生と思われてるけど、「少女A」を聴いたときに、これは自分の歌だと思った。私だけが知っている、本当の自分のことを歌ってくれた歌だと思った。これを不良少女の歌だと考えるのは自由だけれど、間違いだと思う。私のような”少女A”が生きていることもわかってほしい。

売野はそれを読んで、泣きたいくらい感動したという。

ほんとに書いてよかったと思えた瞬間でした。彼女の論も鋭いし、こんなふうに波及するんだと驚いたんです。僕が書いた歌詞だけど、もうその瞬間は、彼女のものになってる。それって素晴らしいことですよ。大衆音楽、ポピュラー・ミュージックの本質にいきなり触れた気がしました。

時代を変えるほどのインパクトを持つ歌謡曲の奥には、重層的かつ複合的な文化とともに、知られざるいくつもの物語が潜んでいる。

文/佐藤剛 編集/TAP the POP

引用
『砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々』(朝日新聞出版)
「少女A」を生んだ作詞家・売野雅勇に訊く、キャリアの転機と“昭和歌謡リバイバル」(リアルサウンド)