長嶋茂雄氏が言った「ケンちゃん」とは?

中溝 ディテールの面白さという点では、鷲田康さんの『10・8 巨人vs.中日 史上最高の決戦』(文藝春秋 13年)も外せません。94年セ・リーグ最終戦で同率首位の両チームが直接対決をした〝国民的行事〟ですが、細部の描写がたまらないんです。

巨人ナインが東京駅から名古屋駅へ向かう新幹線で、「いつもは漫画を読む落合さんが、目をつむってじっと瞑想していた」と証言したのは松井秀喜でした。

『10・8 巨人vs.中日 史上最高の決戦』
鷲田 康 文藝春秋 2013年
『10・8 巨人vs.中日 史上最高の決戦』
鷲田 康 文藝春秋 2013年

決戦前夜、ホテルの一室で桑田真澄は長嶋茂雄監督と二人きり。電話が鳴り、監督が受話器を取ってテンション高く話し終えたあと、「ケンちゃんが頑張れってお前に言ってたぞ」と桑田に告げました。

誰のことかわからず、「志村……けんさんですか?」と戸惑う桑田に、「ケンちゃんと言ったら、高倉の健ちゃんだろ!」とツッコむ長嶋監督。こんなコントのようなやりとりも、長嶋監督をベタ付きで取材していた鷲田さんだからこそ描けたシーンです。

田崎 最後に、かなり変化球ではありますが、MLB選手組合の初代委員長、マービン・ミラー氏の『FAへの死闘 大リーガーたちの権利獲得闘争記』(ベースボール・マガジン社 93年)を挙げます。

『FAへの死闘 大リーガーたちの権利獲得闘争記』
マービン・ミラー 著 武田 薫 訳
ベースボール・マガジン社 1993年
『FAへの死闘 大リーガーたちの権利獲得闘争記』
マービン・ミラー 著 武田 薫 訳
ベースボール・マガジン社 1993年
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中溝 タイトルからして重厚ですが、内容はそれ以上に重量級ですね。なぜ、この作品を?

田崎 60年代のMLBには、ハンク・アーロンやミッキー・マントルといったスター選手がいましたが、彼らの年俸はその実力に見合ったものではなく、移籍の自由もありませんでした。

この作品は、労働法の弁護士でもあったミラー氏が選手の権利を守るために、コミッショナーや球団オーナーと戦い、フリーエージェント権を勝ち取るまでの過程を詳細に描いています。歴史が忘れ去られるとき、時代が逆戻りするのだとすれば、『FAへの死闘』はその流れを食い止める力を持つ名著だと思います。

日本のプロ野球界でも、選手会が勝ち取ってきた権利はあるし、ミラー氏のような存在がいたはずです。ただ、日本ではそうした人物があまり取り上げられず、『FAへの死闘』のような資料も記録も乏しい。

その結果、歴史が忘れ去られつつあるのではないかと危惧しています。佐々木朗希選手は選手会を退会し、今年にポスティング制度を使ってドジャースに移籍しました。

それを美談とするのもいいですが、選手たちがいま享受している権利やルールが、どのように形作られてきたのかという歴史を、選手自身も知るべきですし、ジャーナリズムの中ではもっと語り継いでいかなければいけないと思っています。

中溝 佐々木選手の件もそうですが、日本ハムからポスティングでメジャー移籍した上沢直之投手がわずか1年で帰国し、ソフトバンク入りするという物議を醸した一件もあります。『FAへの死闘』は、制度見直しの必要性が叫ばれている今こそ、読む価値のある一冊だと思います。

取材・文=興山英雄 撮影=タイコウクニヨシ
(集英社クオータリー コトバ 2025年春号より)

kotoba 2025年 春号
コトバ編集室
kotoba 2025年 春号
2025/3/6
1,550円(税込)
228ページ
ISBN: -

特集
野球の言葉

野球は単なるスポーツの枠に収まりません。
ノンフィクションや小説、漫画、選手や監督たちの本を通じて、
数々の名場面が語り継がれてきました。
本特集では、野球と言葉の深い結びつきにスポットを当て、
どのように野球は描かれ、語られ、物語として紡がれてきたのかを探ります。
スタジアムを越えて広がり続ける「野球の言葉」。
kotobaならではの角度で、野球の魅力をお届けします。

Part1野球と本の幸福な関係
柴田元幸 アメリカ文学と野球の深い関係
鈴木忠平×早見和真×クロマツテツロウ 野球の物語が生まれるとき
ツクイヨシヒサ 野球マンガを変えた名セリフ
田崎健太×中溝康隆 野球ノンフィクションの名著
生島 淳 ロジャー・エンジェルの思い出

Part2野球から生まれる言葉
高橋源一郎 優美で感動的なアメリカ野球
石田雄太 大谷翔平、イチローの言葉
生島 淳 野村語録を考える
池松 舞 野球の力、短歌の力
スージー鈴木 野球音楽ベストナイン
丸屋九兵衛 なぜラッパーは野球帽をかぶるのか?――ヒップホップとMLBの邂逅

Part3野球がつなぐ人と言葉
野嶋 剛 「棒球」が「野球」に追いついた日
木村元彦 中畑清、古田敦也、新井貴浩……歴代会長が語る「プロ野球選手会」の闘う言葉
友成晋也 アフリカで花開くベースボーラーシップ®
ピエール瀧 野球とニューウェーブと甲子園と
加藤ジャンプ 球場酒

【対談】
犬山紙子×今西洋介 子どもを性被害から守る言葉

【インタビュー】
福岡伸一 ボルネオで出会った環境と生物の動的平衡

【連載】
大岡 玲 写真を読む
山下裕二 美を凝視する
石戸 諭 21世紀のノンフィクション論
大野和基 未来を見る人
橋本幸士 物理学者のすごい日記
宇都宮徹壱 法獣医学教室の事件簿
鵜飼秀徳 ルポ 寺院消滅――コロナ後の危機
赤川 学 なぜ人は猫を飼うのか?
阿川佐和子 吾も老の花
木村英昭 月報を読む 世界における原発の現在
木村元彦 言葉を持つ
おほしんたろう おほことば

【kotobaの森】
著者インタビュー 小西公大 『ヘタレ人類学者、沙漠をゆく 僕はゆらいで、少しだけ自由になった。』
マーク・ピーターセン 英語で考えるコトバ
大村次郷 悠久のコトバ
吉川浩満 問う人
町山智浩 映画の台詞

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