日英同盟から日米同盟まで常に“最強国”とくっついてきた日本だが今こそ真の外交力が求められている
川満 本書でも触れられていますが、今、沖縄と南西諸島の要塞化がどんどん進められ、ミサイル配備も進んでいます。そんな中、「自衛隊の沖縄戦認識」にも問題がある、という議論があります。6月23日の慰霊の日に、沖縄の自衛隊幹部や隊員が牛島司令官をまつった「黎明の塔」に参拝に行っていたなど、戦犯に寄り添っている状況があるんです。
先ほど(前編)も話しましたが、中谷防衛大臣が牛島満の辞世の句を「平和の句」だという、とんでもない解釈をしました。そして牛島満をまつった「黎明の塔」に早朝3時とか4時に、自衛隊が隠れるようにして参拝しに行くということをしてきました(批判を受けて現在は中止)。
「なぜそこまでやるんだろう?」と考えると、これから起こるかもしれない戦争を正当化しようとしているんじゃないか、ということが非常に気になります。
今、沖縄の新聞の読者投稿欄には「外交が大事だ」という声が非常によく出てきます。沖縄の人たちみんながそうじゃないと思いますが、新聞に投稿する人たちは非常に冷静に物を見ていて「なぜこんなバカげた軍備増強をやるのか? なぜもっと外交努力をしないんだ?」という問題提起をけっこう投稿しています。
「なぜ外交ができないんだろう?」ということをもう少し深く考えていくと、第二次世界大戦、アジア太平洋戦争というものを、日本政府があいかわらず正当化しているというか、自分たちが戦争したことを反省していないということがあります。
しかし私は、そこをしっかり謝罪することから外交が始まると思うんです。殴られた相手、足を踏まれた相手は100年たっても痛みを忘れない。被害を受けた人は80年たっても100年たっても痛いわけですから、まずそこに対して、おわびをする。そこから本来の外交が始まって、今の問題につながっていく。
ところが、そういった加害というものにずっと蓋をしていくから、外交の基本的な部分が完全に無視されている。そして「日米同盟」としての軍備強化がまた始まっていく。そういった姿勢そのもののおかしさを、林先生のこの本や、いろんなアジア太平洋戦争の本から、みんなでもう一度学んで、「外交って何だろう?」というところから進めていった方がいいと感じます。
林 今、川満さんから外交の話が出ましたが、近代以来の日本の歩みを考えてみると、最初に、日英同盟を結ぶんですね(1902年)。つまり当時世界一強いと思われる国にくっついた。後にドイツが台頭してくると、今度はドイツとくっついて、日独伊三国同盟を結んだ。第二次大戦でそれが失敗すると、今度はまた世界一強いと思われるアメリカと組んで日米同盟だと言う。そういう意味で「日本の外交ってあったのか?」と。基本的に「一番強い国とくっついていれば何とかなる」という道だけだった。
しかしアメリカが今のように力が弱くなって、しかもトランプ政権は、もう自国のことしか考えない、となっている。だから今は「いったい日本はどういう生き方をするのか?」を本当に真剣に考えないといけない時なのです。
中国がどんどん強くなってくることはまず間違いないですが、その中で「ただ一番強い者とくっついていけばいいんだ」というのではなく、「そういう世界の中で、どうやって日本の人々の安全と生命を守るのか?」という意味で「本当の外交」が必要な時だと思うんです。
しかし残念ながらそういう議論がほとんど起きていません。ひたすら「アメリカのご機嫌をどう伺うか?」しかない。そういう意味で、近代以来の日本の生き方を根本的に考え直す、反省し直すことが必要だろうと。
そこまで言うと話が大きくなりますが、もう少し限定していくと、「戦争にならないための外交にはいろんな努力が必要である」ということと同時に、「仮に戦争になったとしても、人々の被害をできるだけ少なく、最小限にするための対策」というのを自衛隊は軍事組織として考えるべきです。
自衛隊は発足以来ずっと沖縄戦について研究していますが、1950年代ぐらいには、まだ、「日本軍のやり方はちょっと良くなかった」という反省が、少しはあったんです。自衛隊による沖縄戦史のいろいろな研究の中でも。
ところが1960年代になると、そういう反省とか「ちょっと良くなかった」というのは全部消えていった。ひたすら「日本軍は立派に戦った、勇戦奮闘した」という一色になってしまった。しかし大日本帝国憲法下の軍隊をそのまま正当化する必要はないだろうと思います。
日本国憲法の下でもし「自衛隊が必要だ」と考えるのであれば、「どうやって自衛隊が人々の生命や安全を守るのか?」ということを考えなくてはいけません。仮に自衛隊が戦うにしても、「できるだけ住民に被害を及ぼさないようなやり方」を考えないといけない。
しかし残念ながら日本社会では、そこが全然議論されていません。ですから、南西諸島でもそうですが、住民の住んでいるところのすぐ近くに自衛隊基地やミサイル発射基地を造ってしまう。しかし基地があったら、住民は基地もろとも攻撃されてしまうわけですよね。
沖縄本島自体、もう、軍と民衆が一緒に住んでいるところで、ああいう基地のあり方自体がおかしい。これは日本本土でもそうです。本土でも、自衛隊基地の本当にすぐそばに住民が住んでいますし、民間の空港や港も自衛隊や米軍が使っています。そうすると、もう日本中全てが軍事攻撃目標になってしまう。
だから、戦争を起こさせないための努力を根本的にやらないといけないのです。それと同時に、軍事組織を日本という国が持っている以上、「それは住民をいかに守るのか?」という観点で、もっと議論しないといけない。そういうことの手がかりになるようなものを、この本の中では書いたつもりです。
ですから「絶対に戦争をやらないで済むために日本をどうするか?」と。これは沖縄戦の議論を超えて、もう日本国全体で本当に真剣に議論しないといけないところだと思います。
川満 いや、本当にそうですね。政治家は基地問題や安保問題について「これは政治家の専権事項である」という言い方をします。僕はあの言葉が非常に怪しいと思っています。それを打破したのが、前沖縄県知事の翁長雄志 さんです。「こういった基地問題はいわゆるイデオロギーではない」「沖縄のアイデンティティーを取り戻すために、自分たちは今そういった議論をしているんだ」と。それで、辺野古の米軍新基地建設にも反対したわけです。
しかし「基地問題や安保問題は政治問題だ」という扱い方をマスメディアがして、それを国民が真に受けて、「結局こういう安保問題や安全保障問題は、全て政治の問題だから自分たちは関係ない」と無関心になってしまう。そういう構造が最近あまりにもひどい。
でもそうではなくて、林先生が言ったように、「なぜ現在これだけ沖縄は主体性を持っているのか?」ということを振り返ってみて、沖縄の基地問題も全国の基地問題も、「これらの基地は、自分たちのアイデンティティーを守るためにあるのか? それとも政治を守るためにあるのか?」といったところから、主体性を持って議論してほしいと思います。
今もう、とにかく無関心者が増えている。それは先ほど林先生が言った、教育の問題やメディアの問題もあって、次第に「話をさせないように」という仕組みがいつの間にか出来上がってしまっているんじゃないか、ということが非常に気になります。
だからこの本のように、「あの戦争は何だったのか?」という部分をきちんと振り返ることができる本が、ぜひ読まれて行ってほしいと感じます。
構成=稲垣收