自分の人生のスタンスは自分で決めるしかない
もちろん、本田が本当にそう思っていたかはわからない。本田は私を目の前にして、「お前は無理して京大なんか行くから人格が歪んだんちゃうか?」と言えてしまうタイプの人間ではないからである。
本田は中学時代に出会った頃から一貫して変わらず、物腰のやわらかい人格者なのだ。私はゴリゴリに無理をして京大に入り、ゴリゴリに無理をして作家として何とか本を出せるところまで来た。
私は基本的にだらけまくりの人間だが、「大学」と「作家」だけは絶対に納得いくところまでいかなければ気が済まなかった。そして「作家」という仕事に関しては、まだまったく自分の中での「納得」に達することができていない。周りを見ていてもきっと私だけでなく、作家という人種はそういうものなのだと思う。
しかし、こういう極端な人生を送ってきたために失ったものは多い。多すぎる。ここに書けないものもたくさん失ったし、今も失い続けている。だが、私という人間から学歴と作家業を取り払ったら、後には灰一つ残らない。私は本田になろうとしても決してなれない人間なのだ。
こう書いてしまうと、もしかすると何か強い目標を持っている私の方が偉いという主張に見える方もいるかもしれないが、私は決してそう言いたいのではない。
私は結局、徹頭徹尾欲望に支配された俗人だと言いたいのだ。なぜ東大京大でなければならないのか? それは一言で言えば見栄のためである。
あまりそう考えたくはないのだが、この国が東大京大に高い価値を認めないような社会だったならば、私が京大を目指すことはなかっただろう。なぜ作家でありたいのか、という点に関して言えば、書いている時間が楽しすぎるから、というのがもっとも大きいのだが、自分の能力を知らしめたいという自己顕示欲がそこにまったく介在していないと言えば嘘になる。
本当に良い作品を楽しく書きたいだけだというなら、無記名でネットに文章を置いておけばいいのだから。それを誰かに知られたい、本という形にしたいというのは、いくら綺麗な言葉で飾っても、人間らしい不純な欲望に基づくものだと言わざるをえないだろう。
私は本田のすべてを知っているわけではもちろんないし、本田自身が開陳した「後悔」がどれほど本気のものなのかもわからないが、周囲に流されず無欲に誠実に生きる、という真の茨の道を選んで歩き続けているのが、やはり私の認識する本田なのだ。
あの時東大寺とラ・サールを受けなかった、京大を受けなかった、大企業に惑わされなかった本田には、並の人間にはない確固たる自己というものが備わっているに違いない。もちろん、彼が完全に正解で、全員が彼の生き方を称揚すべきだということでもない。
人間らしい欲望をガソリンにして、現実社会での圧倒的成功を目指す生き方も一つの立派なヒーロー像である(だが、そうした生き方を散々推奨し実践してきた上で、今度は反省の素振りを見せて弱者に寄り添う言説を垂れ流し始めるタイプの人間を、私は決して信じない。それは単に自らの時代を読み取る嗅覚に従い、結局は自分が成功するためのもっとも効率的な方法を選んでいるだけなのであって、その人間の本質はまったく変わっていないからだ。もちろん「転向」が悪いわけではないが、ある人間が本当に「転向」したのかどうかは慎重に見極めるべきだろう)。
ここまで色々と好き勝手なことを述べさせてもらったが、自分の人生のスタンスは自分で決めるしかない。明確な答えもない。当然だが、私が良いと思わない生き方も、あなたが良いと思わない生き方も、ある人間にとっては「絶対的な」正なのである。
君たちはどう生きるか──これは人間が生きる限りつねに喉元に突きつけられ続ける、そして完璧な解答の存在しえない終わりなき問いなのだ。今回紹介した本田の生き方を、そうした難題を解きほぐすささやかなヒントにしていただければ幸いである。
文/佐川恭一 サムネイル/Shutterstock