なぜ「よいしょ」と言ってしまうのか
今も私たちが重いものを持ち上げたりしながらつい言ってしまう「どっこいしょ」とか「よいしょ」とか「せーの」も、労働歌に近い。声を出すことで気分の切り替えができるし、タイミングも計れるし、気合いが入って何倍もの力を発揮することもできる。
「気合い」という言葉もまた、気を合わせるという目には見えない感覚的な力を表す日本独自のものである。
スポーツ選手が実際に声を出しながら試合をするのも、そういう理由があるという。槍投げの後の雄叫び。卓球の「チョーレイ!」。見えない気の塊が飛んでくる。
先日、能楽師の有松遼一さんと対談させていただき、特別にお能の「謡」を披露してくださった。話をしていたときと空気が一瞬で変わる。ものすごい声量。有松さんの体全体がびりびりと響いているのがわかる。体という筒がラッパやチューバのように鳴っている。ああ、体は楽器だなあと思った。
歌うとき、笑うとき、叫ぶとき、体にこもった気がぽーんと飛んでいく感覚。山で「やっほー」と叫ぶとき、とても気持ちがいい。そう、「気の持ちようが良い」のだ。
音とは、声とは、体の中から出てくる気なのだとわかる。だからこそ、しゃべり言葉は文字では見えない人となりが見えてしまう。隠しようがないから困ることもある。
メールやSNSばかりで、声という臓器があまり使われていない今は、感情に乏しい時代だとも言える。声は動物の証でもある。泣くときにも笑うときにも、感情とともに声が出るのには意味がある。
湯船に浸かるとついつい「はぁー」と言って息を吐いているのも、心身を整える上で必要なことなんだろう。「呼吸法」はときおり話題になるけれど、情報ばかり受け取ってしまう現代において、吐き出すことが足りてないことは一目瞭然。
ストレスが体にこもってしまうと、空気が流れない。いつも唄を携えていた祖父母たちは、自然にそのことがわかっていたのだ。歌えば気が晴れていく。それは、体に風を通すことだったのだ。
唄や掛け声にもリズムがあるように、会話、演説、落語……話し言葉には100人いれば100通りのリズムがある。政治家は政治家っぽい話し方になるし、先生は先生の、噺家は噺家の話し方になる。同じ職業の人全員が同じ間合いでもない。
話し方は性格の最も反映されるところだ。そのリズムこそが、ごまかしようのない自己紹介である。
手紙やメールではあんなに流暢だったのに、会ってみると無口でしゃべらない人もいて、そのギャップに驚いたこともあった。声はいつも一発勝負。文章のように推敲も書き直しもできない。だからこそ本心が出やすい。
数年前、中四国地方の民間放送ラジオの大会があり、審査員をさせてもらった。1ヶ月の間に、実に100時間近いラジオ番組を聞いていると、とてもよくわかるのだ。心が。
声やしゃべり方、間合いで、本音か建前かが伝わってくる。文字では隠せても、声は表情の一部なんだなと思った。
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