「証拠」とは何か

だが当事者は納得できない。共同体の中にも納得できない人がいるかもしれない。その人たちにも「これは有罪です」と認めてもらうために、もっと説明する必要が出てきた。それが「証拠」である。

近代法は「証拠」に基づいて判断する点に大きな特徴がある。証拠に基づけば、神さまを信じない人たちも納得できる。証拠を示して、どうしてその結論が導かれたのかを、一定の根拠をつけて説明していけばいいのだ。

では「証拠」とは何だろう。犯罪事実でわかりやすく説明すると、その犯罪事実が残した痕跡のことである。犯人がナイフで被害者を刺したとすると、犯人が握ったナイフに指紋という痕跡が残る。そこで指紋採取して、何か月後かの法廷に持ち込んで、判断するわけだ。

「論理的に考える」と「理論的に考える」はまったくの別物だった! では具体的にどう違うのか? _2

あるいは現場に足跡が残っていれば、足跡という痕跡を型に取ったり、写真で撮影したりして、それを法廷に持ち込んで裁判官が判断をする。

「私が見ました」という目撃証人がいるなら、その証人の記憶が過去の事例の痕跡となる。それらの痕跡を時空を超えて裁判官の前に提示すると、裁判官は証拠に基づき、「この人が殺した」という過去の事実を推測して認定していくのだ。

だから、証拠に基づき判断するプロセスは、誰もが納得できる形で一定の結論を導こうというプロセスそのものである。

たとえば、ナイフを握らなければ指紋はつかない。だから彼が握ったのだと推論できるのは、因果関係の法則をみなが日常の経験の中で理解し、納得しているからだ。そうした物差しと根拠を積み重ねて、裁判は進んでいく。