一審無罪から、二審死刑の真相
「名張毒ぶどう事件」は1961年3月、三重と奈良にまたがる小さな集落・葛尾で起きた。村の懇親会で振る舞われたぶどう酒に農薬が混入しており、女性5人が死亡、12人が傷害を負った。
殺人罪などの嫌疑をかけられたのは奥西勝氏(当時35歳)。死亡した5人の中に本妻と愛人がいたことが引き金となり、奥西氏が「三角関係を精算したかった」と自白したことで起訴にいたる。
しかし、自白は強要されたものだった。加えて、検察側の作為ある供述変更が指摘されたことで、一審では無罪が認められた。
その後、裁判は二審に進んだものの、親族は無罪を疑わなかった。容疑を裏付ける証拠が自白のみで、潔白を証明する住民の証言も得ていたからだ。
たが、二審判決は死刑だった。ことの経緯を鎌田麗香監督が説明する。
「奥西さんの供述書には、取調官から『家族が村落民によって迫害されて大変苦しんでいる。家族を救うために早く犯人だと自白する事よりほかにない』と綴られています。奥西さんの妹・美代子さんは当時、近隣住民から家族の墓を荒らされたと話していました。
では、なぜ二審で判決が翻ったのか。あくまでも憶測ですが、世論が影響したと考えています。当時、不貞を続けていた奥西さんに対して、記者や報道の風当たりは強く、奥西さんの声を取り上げた取材報道は確認できなかった。妬みや偏見から歪んだ空気感が膨らみ、逆転死刑判決につながったと感じています」(鎌田監督、以下同)
「奥西さんは村全体の犠牲となった」
奥西氏が逮捕、起訴されて以降、奥西氏の母は“殺人犯の家族”とされ、村八分にされて故郷を追われた。家のガラスは割られ、室内に侵入されて柱に頭を打ちつけられるなどの暴力行為も受けた。
当初は、奥西氏の潔白を証明する村人の証言もあったものの、起訴されたことで世間からの目は豹変した。
「事件が起きた葛尾は、約20世帯の小さな集落でした。時代的にも親戚とお見合い結婚するのが自然で、いわば誰かが誰かの親戚で、村全体が家族のような雰囲気だったそうです。
だからこそ村落民は、奥西さんを犯人と仕立てた方が都合がよかった。奥西さんではない別の真犯人が出ると、誰かが同じ身内を殺害したことになり、村落が混乱してしまう。閉塞的な田舎社会では、たとえ誰かが冤罪で犠牲になっても、村全体を守るためには仕方ない。そんな暗黙の了解があったのではないでしょうか。
その犠牲が奥西さんだった。事件の周辺人物で、それらしい犯行動機があるのは、三角関係を続けていた奥西さん以外に考えられない。他に真犯人だと目されている人物はいたものの、決定的な証拠は見つかっていません。
事件の供述に矛盾は多々、感じるものの、事件を掘り返したくない村の事情に、死刑判決が後押しする形となり、奥西さんが冤罪を被る形となったのではないでしょうか」