「子供と遊ぶのが得意である」と「子供を自分で産み育てたい」の間の溝

そんなわけで「子供が好き」とはまっすぐ言い切れない私なのだが、甥や姪と遊ぶのはなんだか得意なようで、彼らからはありがたいことに人気がある。占い師に「魂が小学5年で止まっている」と言われたことがあるので、どちらかというと「遊んでくれる大人」ではなく「一緒に遊ぶちょっと歳上の子」くらいに思われているのかもしれないが。

甥や姪と遊ぶ私を見て、母は「そんなに子供が好きならやっぱり産めばいいのに」と言ってくる。

しかし、「子供と遊ぶのが得意である」と「子供を自分で産み育てたい」のあいだにはマリアナ海溝よりも深くて広い溝があるのだ(マリアナ海溝が実際どれくらい深いのかは実はよく知らないが)。

「子供と遊ぶのが得意」な人は少なからず童心を持っていると思う。たとえば、往年のギャグ漫画『こち亀』の主人公・両津勘吉はめちゃくちゃ子供と遊ぶのが得意かもしれないが、親になるのが向いているかというとそうは言えないだろう。自分が「子供」に近いから子供とノリが合うのであって、親になるにはしっかり「大人」をやらなければならない。

魂が小5であると言われた私も、どっちかと言ったら両津勘吉側の人間なのだろう。子供の頃の自分の感情をわりとしっかり覚えているのも、やはり「子供」に近いからなのだと思う。

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ちなみに、母は子供を四人産み育てたが「正直、子供と上手に遊べない。何をしたらいいのかよく分からない。あんたのほうがずっと上手い」と言っていた。

保育士や幼稚園・小学校教諭などはまた別で、彼らは「一緒に遊ぶ」ではなく「遊ばせる」「学ばせる」のプロである。そのための知識や技能を持っているが、やはり「子供を自分で産み育てたい」かというとそれはまた全く別問題だろう。「幼稚園の先生だからいいお母さん(お父さん)になるわね」というのもかなりズレた発言だと思う。