ヤクルトという会社の「根底」
ネックはやはりオーナーだった。逆に言えば、そこさえ説得できれば、他のフロント幹部も復帰について障壁になることはないと確信できた。
交渉事はテーブルにつくまでが勝負でもある。団体交渉のように正面からは行けなかったが、情報を収集することで希望は見えて来た。ヤクルトが労組を脱退してからすでに3年が経過していた。
選手会労組は理不尽な活動を展開するわけでもなく、筋の通った運営を重ねたことによって世論の支持も厚くなっていた。時代の流れとしてもヤクルトだけが足並みを乱していると社会的に受け取られるのも企業イメージとして得策ではない。
フロントも決して頑なではないことがわかってきた尾花は「復帰するためには、我々はどうすればいいでしょうか」と踏み込んだ意見を発信した。
一方で尾花は、対立感情ではなく、オーナーの気持ちも理解していた。
「やっぱり、ヤクルトという会社の根底にはヤクルトおばさんと呼ばれる人たちがいらっしゃるじゃないですか。あの方たちは、乳酸菌飲料を1本売って何円の仕事をしておられる。その人たちのおかげで会社が大きくなって球団を持つに至った。
それを、プロ野球選手だからといって、FAなんかで一気に大金を得るという主張の方向にいきなり走り出したら、どう思われるのか。傲慢に映ってそういう方たちのモチベーションを下げてしまうんじゃないか?ということだったと思うんです」
頃合いと見た1988年10月、新橋ヤクルト本社で田口周代表、相馬和夫社長との2対1の会合を持った。
「イエスをもらうために行ったので、言葉選びはすごくしましたよ。やっぱり刺激を与えないようにしなきゃいけないし、『そうだな、お前のいう事ももっともだ』と思ってもらうように伝えないといけない。
それはもう本当に考えましたね。最終的には『よろしいですか』『分かった』という感じで。フロントもオーナーに報告に行くときは腹をくくって行ったと思いますね(笑)」
こうして大願は成就した。